国立音楽大学

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授業を行う伊藤先生の写真

第26回 日本におけるリトミック教育の普及〜小林宗作を中心に〜(伊藤仁美先生)

日本の近現代の音楽と音楽文化への理解を深め、本学のあゆみを知る授業。2週にわたる伊藤仁美先生による講義では、日本におけるリトミック教育の普及をテーマにお話しいただきます。第1週目はリトミックを教育活動として普及させた本学附属幼稚園初代園長の小林宗作(1893-1963)の取り組みについてお話しいただきました。

まず、伊藤先生よりリトミックとは何かについてご説明いただきました。リトミックは、スイスの作曲家・音楽家のエミール・ジャック=ダルクローズが提唱した、リズム運動、ソルフェージュ、即興演奏の3つの柱を中心として音楽と動きを融合させた音楽教育方法の一つとされていることをご紹介いただきました。
ダルクローズは、ジュネーヴ音楽学校に学び、アフリカのアルジェの劇場の第二指揮者を経て、ジュネーヴ音楽学校の和声学教授に就任します。しかし、極端に技巧的な演奏を求める当時の音楽教育への問題意識から「耳からの音楽教育の必要性」を問い、音楽における身体性とは何かを意識し、音楽と動きを融合させたリトミック教育を創案します。
ダルクローズは総合的な芸術教育を行うドイツのヘレラウ音楽院でリトミック教育を実践、ジュネーヴにジャック=ダルクローズ学院を創設し、以降さまざまな国や都市でリトミックは広がりを見せていくとお話しいただきました。

また、リトミックには「内的聴覚」という概念があります。これは調律楽器(ピアノ)と作音楽器(声)の両方による聴音訓練と、音楽を自分の実体験として受け止めるためのリズム運動、そして即興演奏によって音楽感覚や心身の調和を育むと考えられています。これがリトミック教育の独自性につながっていると伊藤先生はお話しされました。

続いて、小林宗作とリトミックについてご紹介いただきました。小林は群馬県の小学校での代用教員のほか、複数の小学校での勤務経験から、子どもたちへの最善の教育とは何かを模索していました。1923年よりヨーロッパへ留学、新渡戸稲造の勧めもあり、パリのダルクローズ学院でリトミックを学び帰国。1931年には再度留学し*、ダルクローズから直々に承認を得て日本リトミック協会を設立、日本の子どもたちに向けて「綜合リズム教育」を提唱しました。1937年には黒柳徹子著『窓ぎわのトットちゃん』にも登場するトモエ学園を創立。戦後には、空襲によるトモエ学園の廃校もあり、代用教員時代に知り合った本学の創立者の一人である中館耕蔵の誘いから、1949年より本学附属中学校、高等学校、大学でも教鞭をとり、1950年には附属幼稚園初代園長に就任、多くの保育者養成校でもリトミックの普及に努めました。
その後、1952年には本学幼児音楽教育専攻の前身となる附設保育科、1956年には幼稚園教諭養成所を設置、1962年にはリトミックを専門に学ぶ教育音楽学科第II類の発足にも尽力しました。

伊藤先生は、小林の功績として、3つの点を挙げています。①幼児教育者として初めてリトミック留学を行ったこと、②幼児教育におけるリトミックの普及、③リトミック教育の研究機関の設立です。
小林は唱歌一辺倒の音楽教育への懐疑的な考えから「先生の教えた通りに実行するいわゆる『お遊戯』への批判」という考えがあったと伊藤先生はお話しされ、幼児期における「リズム教育」の重要性を提起したことに言及されました。また、小林はリトミックを幼児期の教育として普及させ、根付かせていったことに触れ「小林の功績は間違いなく、幼児期教育の普及という点において発揮されている」とお話しされました。
伊藤先生は最後に、将来教育に携わる可能性のある学生たちへ「お話ししてきた通り、リトミックは保育現場での親和性が高いものです。みなさんがこれからのキャリアを考える時、専門学校や教員養成校の講師という選択肢もあると思います。ピアノやソルフェージュに並び、リトミックを求められることもあるでしょう。その時には消極的になることなく、くにたちのリトミック教育のことを意識しながらキャリアを考えてもらえたら」と学生へエールを送り、講義を終えました。

次回は、小林の後を引き継ぎリトミック教育に尽力した板野平についてお話しいただきます。


*2度目の留学では現地の幼稚園を視察、ピアノのグループレッスンである「バッカネラ式ピアノ教育法」等を見学した。この教育法は幼児音楽教育専攻のグループレッスン形式にも影響を与えたと言われている。

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