音楽徒然草
第33回 「子どもの中を流れる時間」 松沢 孝博 教授
一般的に時だとか時間というと、私たちはほとんど時計で測ることができる時間を考えます。何秒、何分、何時間、何週というような単位で表すことができます。人間の発達も月齢や年齢を基準に育ちの程度をみていくことは時計で測れる時間を想定しています。私たちの外側にある物差しです。確かに時計で測れる時間、約束の時間、勤務する時間、開演・開始時間など社会で生きていくにはそれを守ることは当然になっています。ところがそれ以上に機能、効率、経過などプロセスは早さが勝負というスピード化の昨今、子どもに対してその物差しだけで見ていくことが当たり前になっているようです。そこでは,人は同じ早さで、同じ方向に進むことが当然であり、より早い子どもはいい子で、遅い子どもはいとも簡単に問題として扱われるようになっています。
さて人間にとって時間は、測定可能な時間ばかりでなく、測定不可能な時があるということも私たちは知っています。人はその人自身の体験を生きているのであり、外の枠によってのみ測ることはできません。時間を早く感じるというのも客観的時間は私の外に流れているかもしれませんが、私自身はそれとは別のところで生きているということでしょう。とはいえ、おとなは計測出来る時間を無視することはできませんので、計測出来る時間と、計測することが出来ない体験の中にある時間を調和させながら生きているということでしょう。
ところが幼い子どもは、子どもはまだ時計で測れる時間という物差しが分かっていないばかりでなく、外枠の流れとは関係なく自分が生きることに必死です。おとなが外の枠を一方的に持ち出すことにより急かされるだけの子ども、外からさせられて自分自身を生きることが出来にくい子どもを生み出すことになります。そこでは、子どもは身近な人に分かってもらえない思い、親しみを感じにくい思いだけが増幅されます。幼い時期にも、一人ひとりその子どもにとって丁度いい時があるようです。肉体的育ちだけでなく、子ども自身何かを分かる時、感じる時があります。だからこそ身近な人に見守られて。自ら手を付け、やり始め、自らやり通す体験が大事になるのでしょう。楽しい経験、充実した経験は次を期待する、明日とか次回とか時計で測ることができる時間を自然に感じることができることにもなります。