音楽徒然草
第23回 「患者さんが私に語ること」 阪上 正巳 教授
あの東日本大震災とそれに続く原発事故からもうすぐ1年が経とうとしています。この間,多くの音楽家や音楽療法士が被災地に入りさまざまな音楽活動を行ってきたのはご存じの通りです。最近,ある音楽雑誌が「3.11後の音楽」という特集を組み,「いま音楽に何ができるか」という問題意識のもと,今日の状況下での音楽の在り方や可能性について刺激的な議論を展開しているのを読みました。
そのなかに音楽療法に関わる者として気になることが1つありました。少なからぬ評論家や作曲家の方が,そのような音楽活動に触れながらある種の不快感を表明しているのです。曰く,「癒しということばは嫌い」「『癒し』という言葉から感じる欺瞞」「そんなもので癒されてたまるか」などです。なかには,(音楽はそれ自体自律的な芸術として存在しているのであって)「『音楽に何が出来るか』など問う必要などまったくない」とまで言い切っている人もいました。もちろんそれら音楽活動の意義をまったく疑うものではありませんが,かく言う私も「癒し」という言葉はあまり好きではありません。あまりにも安易に使われている気がするからです。たしかにこの言葉には,なにか温泉につかるような甘い,どことなく嘘くさい響きがあります(といっても私は温泉は好きですが)。
ただ,そう思って注意深く読むと,上記の論客たちは,そう言いながら実は別なところに反発していることがわかりました。彼らはむしろ,あの未曾有の出来事がそこに走る亀裂を見せつけてしまった,3.11以前から続くいわば「近代の物語」にノーを突きつけているようなのです。震災と原発事故は私たちに,たとえば「オール電化社会」という人工環境の脆さや,テクノロジーに使われてしまっている人間のおかしさ,科学や効率という人間的な時間尺度のみで行動する愚かしさを暴き出しました。携帯やネットなどによるコミュニケーションの氾濫は,生の現実との対応関係を欠いた「言葉のゲーム」に成り代わってしまっています。
にもかかわらず,世の中では相も変わらぬ右肩上がりの「頑張ろう物語」が横行し,そのなかで「癒し」の物語が叫ばれ続けている。むしろ重要なのは,筋書きの分からない物語の不安定さに耐えること,自然の強大さやそれに囲まれて人間が生きていることに気づくことなどであって,芸術の役割も,人間的な尺度を超えた,古代でいえば宗教儀礼のような天と地を結ぶようなところにあるのではないか,というのが論者たちの言わんとするところだったような気がします。
私はこれを読んで,いつも自分が接している患者さんたちのことを思い出しました。というのも,彼らこそまさに近代的な自我の危機に直面し,因果的な物語の前で言葉を失い,それゆえ現代社会から排除された人たちだからです。彼らはいま私たちに何を語っているのでしょうか。もう50年も精神科病院に入院を続けている統合失調症の患者さんがいます。「此の世は不解でバクハツ」「ダイアル戦 大変大変 ヤット安息睡眠」「無一物無尽蔵」などとノートに書き付けているような人です。
彼は音楽療法セッションのなかで私にメモを書いて渡してくれます。「♪天国か地獄かで聞分ける」「音楽の幻想即きょう曲が上昇して僕は其れだけ」「混沌卒業しつつ有る 第III悟り入門」「音楽は1%の実 99%の殻」「芸術は生やさしく無い 神様に何か考えが有る」「善強 ピアノ永遠」「美から離れない限り大丈夫」「今後は何事も幸福度を見る 何でも幸福ならば合格」。紙数の関係でこれ以上ご紹介できませんが,皆さんはこれをどのように読まれますか?
20世紀ドイツ精神病理学の碩学クルト・シュナイダーは統合失調症者について「神が人間に遣わした」と語り,彼らが臨床現場で発する意味不明な言葉を「神の言葉」と理解すると述べたことがあります。臨床現場では患者さんたちがさまざまなことを教えてくれます。と同時に病状の重い彼らは本当に芸術を,音楽を必要としていることがわかります。今日の状況について言えば,患者さんが教えているように,行く先の見えない混沌とした社会だからこそ,音楽のもつ「癒し」の力は,ますます重要になってきているのではないでしょうか。でもそれをどう活かしていけばよいか,それは決して生やさしいことではありません。本学で私は学生さんと一緒にその本当の可能性を勉強し探求して行きたいと願っています。