音楽徒然草
第19回 「音楽が幸福をもたらす国ブータン」 山本 幸正 教授
私は民謡や民俗芸能に興味があって、「日本民俗音楽学会」という学会に入っているのですが、その会員であるIさんからのお誘いで、8月29日から9月4日まで、ブータン王国に行って来ました。一行は総勢5人で、リピーターであるIさん以外は私も含めて初めてブータンに行く人たちです。
目的は、Iさんと親交のあるツェワン・タシ氏(パロ師範大学音楽指導者)、その父上でブータンの伝統音楽の指導者として著名なアプ・デンゴ氏、音楽家・民俗音楽学者でアヤン音楽学校校長をするかたわら、これからブータンの学校で行う音楽教育の準備をしているジグミ・ドゥッパ氏に面会し、現地で「ミニ学会」を行うこと、デンゴ氏が率いる舞踊団「プンツォ・ダヤン」のパフォーマンスを鑑賞すること、伝統楽器ダムニェン(リュート系の楽器で音色はまさにリュート)及びチベットから来たヤンチン(揚琴)の演奏を聴くことです。実は、現地で交渉して、ブータン音楽リサーチセンターを創設した若手音楽家ケン・ソナム・ドルジ氏にも面会し、別の「ミニ学会」も行うことができ、加えて、ツァーの途中で立ち寄ったホテルレストランでたまたま遭遇した家庭・文化担当大臣のミンジュール・ドルジ氏にも面会することができました。この二つの交渉には、日本語の堪能なガイド、ペマ・ウォンチュックさんの功績がありました。ついでに、遭遇したことと言えば、歌手の加藤登紀子さんにも会いました。
ブータン(現地では“ブタァン”と発音します)の人々は、自国をドゥルック・ユル(雷竜の国)と呼びます。日本人が自国をジャパンと言わずニホン・ニッポンと呼ぶのと同じです。ヒマラヤ山脈の東に位置し、チベットの南側に接し、首都ティンプーは標高2000メートルを超えます。80%を占めるチベット系の人々は、日本人と同じような顔つきをしていて、若者や子供が多く、民族衣装を着た子供の登下校風景をよく目にします。その他よく目にするのは牛と犬で、道路や公共の場所にごく普通にいます。牛が歩いていたら車は徐行するか止まらなければなりません。ガイドのペマさんは、「牛は赤信号」と言っていました。GNH(国民総幸福)政策のもと、急激な近代化をコントロールしつつ、仏教と伝統文化を大切にしています。GNHの四つの柱の一つとして伝統文化の尊重があり、とりわけ音楽と舞踊はブータンの伝統文化の中で重要な位置を占めています。公用語はゾンカ語と英語で、子供たちはバイリンガルです。
さて、「ミニ学会」では、主にブータンの音楽の特徴と伝統音楽の継承、これからの音楽教育について、また日本の伝統音楽との比較について、ディスカッションをしました。ブータンの音楽で重要なジャンルは歌で、特に古くからあるジュンドゥラという種類のものは、沖縄(琉球)音階に似た音階構造をもち、自由リズムで装飾たっぷりに歌われます。歌詞は昔の高僧が作ったとされています。節の種類はブータン各地の地域ごとに多様です。無伴奏のものとダムニェンを弾き語るものとがあり、習うこともマスターすることも非常に困難と言われています。帰りの飛行機で隣り合わせた医師(シンガポールで学会があるとのこと)も、ジュンドゥラは重要な歌であると言っていましたから、ブータン国民にいかに浸透しているかを思い知らされました。
その一方で、若い人たちが好むリクサルというポップス的なジャンルもあり、ツェワン先生のお宅に招かれて行ったときに夕食をお世話してくれた中学生の息子さんは、やはりリクサルが好きであると言っていました。ブータンの伝統的歌唱として、ジュンドゥラとともに、チベット発祥のベードゥラというジャンルも広く歌われています。ベードゥラは、日本の民謡音階と似た音階構造をもち、拍節がはっきりしており、踊りながら歌います。チベットのそれが速く快活なのに比べ、緩やかで、ブータン独自の発展をしました。ヤンチンを自ら弾きながら歌うこともあります。
ブータンには国王臨席のもとに開かれる歌のコンペティションがあり、ジュンドゥラ、ベードゥラ、リクサルの部門があって、テレビでの中継も行われます。審査はかなり厳密で、特にジュンドゥラとベードゥラは本来の伝統的な歌唱の決まりを守らないと除外されてしまいます。
ブータンにはまた、歌の評価に関することわざがあるそうです。
声ではなく言葉(歌詞)を評価しなさい
言葉ではなく旋律(音階)を評価しなさい
旋律ではなく意味(テーマ)を評価しなさい
ジグミ・ドゥッパ氏は、歌の三つの要素はどれも不可欠であるが、特にテーマが大事である、と述べていました。
家庭・文化担当大臣のミンジュール・ドルジ氏との会見では、GNHの柱である伝統文化を守ることに国王はじめ国を挙げて取り組んでいるが、日本同様、それが急速に失われつつあり、危機感を抱いているとのことでした。そのため、調査をしているソナム・ドルジ氏の仕事を高く評価するとともに、貴重な音楽を伝えている高齢の方を表彰するなどしているそうです。
これから学校教育に「音楽科」を導入しようとするブータンですが、すでに音楽が生活に浸透しているブータンで学校音楽教育がどのような役割を果たすのか、しばらく注目していこうと思います。それとともに、日本の学校音楽教育の中で果たして十分に伝統文化を扱っているか、考えさせられました。