音楽徒然草
第6回 「音楽に『仕える』こと」 礒山 雅 教授
同調会との共催コンサートが行われる岐阜への車中で、ルーマニアのピアニスト、ディヌ・リパッティの伝記を読みました。天才を謳われ、透明度の高い演奏で世界を魅了したこのピアニストが一種の白血病により33歳で世を去ったのは、皆様ご承知の通りです。
その伝記の中で印象に残ったのは、リパッティが生涯を通じて音楽に「仕える」という姿勢を保ち続けたことでした。音楽を尊敬すべき高いものとみなし、その真髄に一歩でも近づくために献身すること。リパッティと彼を支えた人たちは、それを当然のこととみなしていたようです。
こういう考え方こそ音楽への原動力であるべきだと、私は確信しています。いつからか、私は「音楽には神様がいる」と思うようになりました。音楽の神様に喜んでいただくことが音楽の目的であり、だからこそ音楽を愛する人たちは、寝食を忘れ利害は二の次にして、音楽に励むのではないか・・・。気は確かかとおっしゃる方もおありでしょう。しかしそう考えるようになってから、私は音楽の世界を、自然に見通せるようになってきたのです。
近代社会の常識になってきた「人間第一主義」は、人間を超える者へのまなざしの下で、反省されなくてはなりません。たとえば演奏家は、自己顕示を謹んで、作品に、さらには音楽に、献身しなくてはならないと思います。コンサートの帰りに「今日のソリストはうまかったなあ」「すごい歌い手だったね」という会話がかわされるのは、まだ途上。「モーツァルトっていいなあ」「音楽って本当にすばらしいね」という会話がかわされるのが、究極の形なのです。みなが一つになって「音楽に仕える」ときに、人知を超えた楽興の時は実現します。
武田忠善先生のエッセイ「一対のわらじ」には、先生の演奏するモーツァルト《クラリネット協奏曲》によって私のこうした理想が実現したときのことが書かれています。私は上記のような考えを自分の音楽との長期にわたるかかわりの結論のように思っていたのですが、その後、国立音楽大学に籍を置き、スタッフの先生方と一緒に音楽を作る機会を重ねることによってそのような考え方に導かれたのではないか、と思うに至りました。個人プレーよりアンサンブルを重視し、音楽の真髄をハーモニーの中にとらえていこうとする発想が「くにたち」の中にはあります。このことをぜひ大切にし、世代を超えて受け継いでいきたい。なぜならそれこそ、たえず新たにされるべきいとなみであるからです。