音楽徒然草
第9回 「美しい楽音を求めて」 安井 耕一 教授
夏の猛暑で心配された秋の紅葉でしたが、人間の心配をよそに今年もまた美しい色合いを見せてくれました。大学正門付近の桜の木々の見事な色づきを見るにつけ、昨年まで目を楽しませてくれた中庭に思いを馳せるのは私だけではないでしょう。庭があったところには新校舎が建設中であり、それは今後の国立音楽大学の中心として学生達の音が満ちる素晴らしい空間になるのでしょう。しかし私は新校舎とともに新たな“くにたちの庭”が整備され、そこが再び学生達の憩いの場所となることを願っています。国立音大の校風と学生達の伸び伸びとした演奏はどこかであの庭と繋がっていたように思うからです。
当たり前の話ですが、音楽する人間は音が大好きなのです。聴覚は音の発生する原因となった内部構造や材質を経験によって直覚するように働くらしい。スイカを叩いてみて出来を言い当てるでしょう?考えてみればそれも不思議なことです。まして演奏において、楽音はその人間の精神構造をも含めた身体的内部構造をすべて明らかにしてしまう。演奏解釈などという言葉は、音に全生命を捧げる音楽家の日々の熱狂的な努力の前では、ひ弱な言葉にすぎない。このことを身をもって学んだのはドイツ留学時代でのことです。
私は8年間ドイツに留学しました。師事したコンラート・ハンゼンというピアニストはエドウィン・フィッシャーの高弟です。ベートーヴェンから後期ロマン派の作曲家に至るまで19世紀は偉大な作曲家の時代でした。その後、20世紀初頭には綺羅星のごとく大演奏家が出現し大演奏家の時代とも言うべき時代に入ります。彼らの演奏が聴衆に与える感動は圧倒的なものだったのです。残された名演奏の記録を聞いてみるとその音の違いが良く分ります。ハンゼンは戦前、戦中フルトヴェングラーやリヒャルト・シュトラウスなどと共演したピアニストで、聴衆の演奏家に寄せる質的な要求が頂点に達した時代に生きた音楽家です。音楽はドイツ民族にとってその精神の中核に常に存在する、無くてはならぬものであります。
ハンゼンは戦争と敗戦によって精神的にも荒廃したドイツ人の魂を音楽によって再興する事を願い、若者の音楽教育に力を入れた人でもありました。戦後デットモルトという小さな田舎町に良い音楽家と教師を集め、ドイツ音楽の将来への希望を託して音楽大学を作ったのも、この人の尽力によるものです。強い使命感をもってドイツピアノ演奏の伝統を伝えようとするこの人のレッスンの厳しさは大変なものでした。人間的には温かく広い心の持ち主でありましたが、音に関しては一切妥協しなかった。厳しいドイツのマイスター(親方)を髣髴(ほうふつ)とさせる人で、私はまるで日本の伝統職人、宮大工の親方に鑿(のみ)の研ぎ方でしかられ続けている弟子のように、苦しい修業時代をすごしたのでした。
しかし師が弾いてくれる音と音楽があまりに美しかったので、毎日が愉しく発見の連続でした。すべての曲が、ハンゼンの手にかかると、それまで私はこの曲を全く知らなかったのだという思いにさせてくれたのでした。当時私は北ドイツのリューベックという町に住んでいました。中世の面影が残る美しい町です。ブクステフーデが住み、バッハが訪れたこの町、トーマス・マンも歩いたこの町のあらゆる建物の中に、この町がかつて聞いたドイツの音の痕跡を探した、悩み苦しんだ当時を思い出します。
この夏久しぶりでこの町を訪れ懐かしい音楽学校や教会を見て歩きました。昔と同じベンチに腰掛けて暮れなずむ夕日の静かな光のなかで、教会の尖塔を見つめながら帰国後25年の月日を振り返りました。師の墓にも参り、懐かしさと感謝の気持ちで一杯でありました。師からの数々の重い言葉を思い出し、微力ながら音楽に対する責任を果たそうという気持ちを新たにしました。
ヨーロッパの美、日本の美、美しいものを求めて歩く人生は愉しいものだ。深く美しい楽音を求める旅は続きます。