国立音楽大学

西野 恵未(ミュージシャン)

くにたちで鍛えた土台があるから
音楽にも、芝居にも、挑戦できる
/2023年4月

プロフィール

西野 恵未さん
ミュージシャン

西野 恵未

1987年生まれ。東京都出身。国立音楽大学附属幼稚園入園と同時に、本格的にクラシック音楽の勉強を開始。国立音楽大学音楽学部演奏学科鍵盤楽器専修(現演奏・創作学科 鍵盤楽器専修)卒業。大学卒業後、教育機関に教師として就職。2014年春から本格的にスタジオミュージシャンとして演奏活動を開始。22年11月、NHK夜ドラ「作りたい女と食べたい女」の春日十々子役で俳優デビュー。同年12月、1stソロシングル「暁」を配信リリース。2024年初頭放送予定の「作りたい女と食べたい女」続編に出演決定。

インタビュー

NHKのドラマ「作りたい女と食べたい女」で見せたその独特の佇まいに、「この人はだれ?」と気になった人も多いはず。スタジオミュージシャンとして活躍し、様々なアーティストから絶大な信頼を得ている、西野恵未さん。いま、キーボーディストのみならず、歌手として、役者として、表現の幅を自由に広げつつあります。

自分を「耕しておくこと」の大切さ

西野 恵未
高校3年生時、友達とおそろいの帽子と浴衣を着てダンス&ライブパフォーマンス(芸術祭の後夜祭にて)

──小学生の頃から、ストイックな生活だったそうですね

 祖母のピアノが実家にあったことがきっかけで音楽に興味を持ち、くにたちの附属幼稚園に入りました。そのまま小学校に上がるか決める際は、「ピアノと水泳、どっちにする?」との問いに私自身がピアノを選んだのだそう。
 音小に入ると、厳しい先生についたこともあって、クラシック音楽に没頭する日々が始まりました。学校から帰ると、遊ぶこともほとんどなく毎日練習していましたし、水曜と週末は先生の家に行ってレッスン。ソルフェージュのドリルをやり、楽典の勉強をし、次の曲の背景を図書館で調べたりと、やることはたくさんありました。ただ、「大変だな」と思った記憶はあまりなくて、歯磨きやお風呂と同じように「やるのが当たり前」という感覚でした。

──くにたち附属の中学・高校に上がってからは、クラシック以外の音楽にも親しむようになったのだとか

 中学時代は、合唱部の活動に夢中でした。小6で芸術祭を見に行った時に、「この合唱部に入って、NHKコンクールで金賞を獲るぞ」となぜか決心したんです。特に中3で部長になってからは、朝練も夏休みの練習も大変な熱の入れようでした。作曲者の先生をハンガリーから招いて、歌や発音指導をしてもらったことも……。すごい贅沢ですよね!? 結果、音中で初の金賞を獲ることができて、最高に嬉しかったです。
 高校時代は、「成績はいいけどグレてる」みたいな人に憧れていた時期(笑)。UKロックやヒップホップ、インディーズのバンドの曲など、色々な音楽を友達が教えてくれて、一緒にフェスに行ったり、友達のバンドでコーラスとして活動したり。ただ、実は勉強も真面目にやっていて、成績はピアノが学年2番、副科声楽はトップでした。声楽科も勧められましたが、「集大成として学びたい」とそのまま鍵盤楽器専修に進みました。

──くにたちで得たものについて教えてください

 くにたちの授業では、とにかく実践的な力を鍛えられましたね。ソロピアノはもちろんですが、オーケストラを想定してコンチェルトを演奏したり、指揮法の授業で実際に指揮をしたり、他の楽器も演奏したり、それから人前で話をしなければならなかったり。その場で自分にできることを考えて対応する局面が多かったせいか、「日頃から自分を耕しておく」ということは常に意識していたと思います。授業や試験の場では、当然失敗もたくさんしましたが。
 ピアノの師匠である花岡千春先生には、厳しくもいつもあたたかくご指導いただき、自分の未熟さも甘さも先生の背中から学ぶ、そんな日々でした。
 キャンパスの思い出深い場所は、当時あったコンビニの前の広場です(笑)。入れ代わり立ち代わり色んな人が通る場所なので、暇さえあればここにいて、友人たちと話したり、授業やレッスンについて情報交換したりしていました。

歌が最高に引き立つピアノを目指して

西野 恵未
ライブでの演奏風景 撮影=後藤壮太郎

──卒業後は、音楽の道から離れる決断をされました

 大学時代の私は、「武器だけはたくさん持っている」という状態で、自分はその先どうなっていきたいのか、が見えていませんでした。そもそも、音楽の道で生きていく覚悟がなかったんですね。腹をくくれていなかったんです。
 それで、音楽をスパッとやめることにして、卒業後は都内のインターナショナルスクールで教員として働き始めました。2~12歳の生徒を4年間ほど教えていたのですが、すごく楽しかったしやりがいがあった。天職だと思いました。

──2011年の東日本大震災がきっかけとなって、キャリアを転換したそうですね

 地震があった時は職員室にいました。ここで死んでしまうのかもしれないと思った瞬間、「ステージに立ちたかったな」という思いが脳裏に浮かんできて……。その後我に返り、自分の気持ちに気づいてしまった以上、中途半端な気持ちで教員は続けられないなと。その後、2年勤め学校を退職しました。
 とはいえ音楽の仕事は何もないので、ライブハウスなどに出かけては「ギャラはいらないから、歌の後ろでピアノを弾かせて」と色んな人に声をかけていました。出会いに恵まれて次第にお声がけいただくようになり、その一つひとつが積み重なって、いまにつながっている感じです。

──スタジオミュージシャンとしての活動はいかがですか

 再び音楽の世界に戻ってきた時、くにたちで身につけた多くの「武器」が、やっとアクティブになっていくような感覚がありました。和声はわかるし、スケールも全部頭に入っているから、曲のアレンジを頼まれても対応できるし、現場に入って初めて譜面を見るような仕事でも大丈夫。しっかりとした土台があることが強みになったと思います。
 鍵盤奏者にも色々な個性の方がいますが、私は「歌ありき」のタイプ。ピアノソロの演奏と歌の伴奏のヴォイシングは全く違うものですが、私は歌が一番素敵に聴こえるような演奏を追求することに、喜びや面白さを感じるんです。ライブでも「キーボードがよかった」より「いい歌だった」と言われた方が、いい仕事ができたなと思います。くにたちで声楽を勉強したことも、すごく生きていますね。

表現への挑戦を恐れずに、これからも

西野 恵未

── 昨年11月には、NHKのドラマ「作りたい女と食べたい女」で俳優デビューを果たし、注目を集めました

 ライブを見たドラマ関係者の方がインスタのDMをくださったことが、出演のきっかけでした。私が演じた春日十々子という役は、幼少期に抑圧された家庭環境で育った女性。状況は全く違いますが、私もある種、選択肢の少ない環境で育ったので、どこか理解できる部分もあったんです。それに、演技未経験の私にわざわざお声がけいただいたのだから、私がやる意味があるのかもしれない、とオーディションから挑戦することに。
 クランクインまでの1カ月は、演技レッスンや体作りなどに精いっぱい取り組みました。いざ撮影現場に入った時は、私はただスッとそこにいれば良かった感じ。本当に周りの皆さんのおかげで成立したお仕事だと思います。ドラマの反響はものすごく大きくてありがたいんですが、どこか他人事みたいな感覚なんです(笑)。

──12月には、初のソロ曲「暁」をリリースしました

 数年前から、「西野恵未」という名前を前面に出してソロプロジェクトをやってみたいと考えていました。ピアノのアルバムか、ライブか、それか得意な陶芸の個展もいいなと。
 ただ、今回のドラマを通して、世の中で当たり前とされる価値観に苦しんでいたり、違和感を抱えながら生きていたりする人たちについて考えさせられたんです。それから、ちょうど私の家族が体調を崩したこともあって、いま流れている時間を当たり前だと思っちゃいけないと実感して。すべての人が自分で決めた幸せを感じながらいい時間を過ごしてほしい、などと考えていたら言葉が次々に出てきて、「あ、歌にしなければ」と。それで出来上がったのが「暁」という曲です。
 スタジオミュージシャンが歌を出すことに対しては、色々な意見があるかもしれませんが、本気で気持ちを伝えれば何か届くかもしれないと、そんな思いでリリースしました。

──くにたちの後輩や卒業生に向けてメッセージを

 卒業後に実感したのですが、第一線で活躍されている音楽家の先生方が身近にいて、会える環境って本当に貴重です。色々な体験談を聞いたり価値観に触れたり、興味があれば学外の活動に付いていかせてもらったりと、学生時代ならではのチャンスを生かしてほしいですね。
 私自身も表現の幅を広げるべく、新しい挑戦を続けていくつもりです。たとえ周りに反対されてもそれに左右されることはないし、いつだっていまが一番若いわけですから! 一緒に頑張りましょう。

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