滑川真希(ピアノ講師)
ドイツ国立カールスルーエ音楽大学ピアノ講師であり、主に欧州を舞台に活躍/1999年6月
プロフィール
滑川真希さん(なめかわ まき)
NAMEKAWA Maki
ピアノ講師
1988年 国立音楽大学附属音楽高等学校卒業。武井恵美子、小畠康史両氏に師事
1992年 国立音楽大学器楽学科ピアノ卒業。池澤幹男教授、アンリエット・ピュイグ・ロジェ女史に師事のほか、クラウス・ヘルヴィッツヒ教授(ベルリン国立音楽大学)にも学ぶ。在学中、学内オーディション合格者による第39回ソロ・室内楽定期演奏会にソリストとして出演。卒業演奏会にソリストとして出演。読売新人演奏会にフルートとのアンサンブルで出演。そのほか大学同調会主催の記念コンサートに出演
1994年3月 国立音楽大学大学院器楽ピアノ専攻を首席で修了。レオニード・クロイツァー記念賞受賞
1994年5月 第21回家永ピアノオーディションに合格、サントリーホールでの記念演奏会に出演
1994年7月 クロイツァー賞受賞記念演奏会(津田ホール)に出演。ベーゼンドルファー社主催「第6回新進演奏家リサイタルシリーズ」(浜離宮朝日ホール)に出演
1995年 ドイツに留学。国立カールスルーエ音楽大学ソリストコース入学。故ヴェルナー・ゲヌイット氏に師事
1996年10月 オーストリア・ザルツブルグカンマーオーケストラとモーツアルトのピアノ協奏曲を共演
1997年4月 カールスルーエ音楽大学ソリストコース後期。韓伽?女史のクラスに移籍、師事
1997年7~8月 ハンガリー「国際バルトークセミナー」に参加。オーディション合格によりフランスのピアニスト:ピエール・ロラン・エマール氏に学ぶ。修了コンサート出演
1997年11月 カールスルーエ音楽大学 ピアノ科講師に就任
1998年4月 スペイン・バルセロナでの「第44回マリア・カナルス国際コンクール」にてディプロマ賞受賞。南ドイツラジオ放送局主催「新進演奏家オーディション」に合格、ラジオ放送される
1998年7~8月 ドイツ「ダルムシュタット国際現代音楽セミナー」に参加。作曲家・ピアニストであるジョルジュ・クルターク氏に学び、修了コンサートにソロ、アンサンブル両方のピアニストとして出演
1998年8月 彫刻家マリス・ルンゲと共同で“響きとオブジェ”コンサートシリーズを開催
1998年9月 ハンガリー出身でドイツ在住の打楽器演奏者ラスロー・フダチェック氏とデュオ結成
現在、ドイツに在住しヨーロッパを中心に数々のコンサートとアンサンブル・ピアニストとして活躍中。ラジオ放送やCD録音も積極的にこなしている。
インタビュー
ドイツの国立カールスルーエ音楽大学のピアノ科講師に就任され、後輩の育成に力を注ぐ傍ら、国際コンクールに積極的に参加、数多くの栄誉を受け、さらに欧州在住の演奏家とのコンサートの開催、彫刻家との異色のコンサートの実施など様々な活動をされているピアニスト・滑川真希さんをゲストに招き、お話を伺いました。
ドイツで就任されている稀有な存在
ドイツでピアノの大学講師に就任されている稀有な存在だと思うのですが、日本人、アジア人には狭いといわれるドイツや欧州の就職事情などからお話を伺わせてください。
一般的には確かに狭いです。留学はともかく就職ともなれば本当に狭き門となります。しかし日本人、アジア人でドイツで活躍している人が多いのも、また現実です。音楽界のことしか分かりませんが、語学力、就労ビザなどの壁を越えなければならないこともありますし、意欲と実力相応という側面もあるのではないでしょうか。
招待状を貰うことですら大きな価値が
一般的にはどのような選抜方法なのですか?
ドイツでは、採用試験の方法が日本と全く異なります。それは日本と欧州の就職観なり人生観の違いとでも云うのでしょうか。日本のように一つの音大に、一つの就職先に一生留まるということにはこだわらないのです。私が見聞した、一般的に行われている音大の募集方法ですが、教授の採用試験でも条件として週何日のレッスンで、学生が何人で、月給がいくらでということが公募の段階からC1、C2、C3、C4とランク付けが示されています。それらの公募を見て、例えばA音大のC1ランクの教授が、B音大C2の教授の試験に応募するということも日常茶飯事ですし、また、C4の最高ランクに位置した教授でも都市の大小を選び、他の音大のC4試験を受けることも多々あるのです。ですから移動が激しく、どの音大でも大体いつも同じ位の応募者があるそうです。特に良い条件の職、教授職等になると応募者数が500名程度になることも珍しいことではないのです。
滑川さんの場合、具体的にはどのような方法で?
私の採用試験の応募者数は500名よりは少なかったと思いますが、経歴、受賞歴などの書類審査の第一関門で10名くらいに絞られ、第一関門通過者には招待状がきます。試験を受けることのできるこの招待状は、それ自体が非常に価値のあるもので、貰えることですら大変嬉しいものです。そして試験ですが、きわめてオープンで、レッスンをしているところを審査されます。それには「30分の個人レッスンを2回」と「45分の個人レッスンを2回」の方法があり、私は「30分の個人レッスンを2回」の審査でした。レッスンを行っている様子を通して人材としての本質を見抜かれ、合否が決まります。演奏力・レッスン力があるのは当然のことで、さらに何かを持っていなければならず、特にその“何か”が評価されるのだと思います。現在、大学全体で私と同じ立場の講師は6人います。私のような外国人の場合、就労ビザの問題もあります。これも欧州全体が制限を設けていますので難しい問題を含んでいます。これも難関ですね。ただ完全に扉を閉めているわけではないのですから、難関ですが意欲で越えられると思います。
大学ではどのように教えておられるのですか?
教育科とオーケストラ奏者の副科の学生にピアノを教えています。個人レッスンでは教育科とオーケストラ科の学生は週30分が必修となっており、私はこの学生たちに毎週レッスンをしています。専攻の学生には週1時間、大学院生には週2時間が必修で、主に教授の方々がレッスンに当たっています。私が担当している学生は全部で9人です。ドイツの音楽大学はどこでもだいたい全学生数は200人~300人程度のきわめて小規模の大学です。レッスン方法は格別異なったことをしているわけではありません。たくさんの国から学びに来ており、また教えに来ていますので民族を越えた交流があり、その点でかえって学ぶことがたくさんあります。
日本人であることで困ったこと
日本人を強く意識する場面もたくさんあると思うのですが。
日本人としては当り前のこと、日本人の美徳というものがありますね。例えば「一歩引く、一歩下がる」あるは「意見を飲み込む」。これらは日本人の美徳の一つですが、これが障害になることがありました。日本人としての精神性においては不可欠で、いつまでも持ち続けていたいものですが、演奏家としての私、外国にも活躍の場を求めている私にとっては、一歩下がる文化は好ましいものではありませんでした。その意味で、葛藤の毎日です。
音楽のように国境の無い世界で生きるには自分の意見を持ち、自己が確立しており、何らかの芯が通っていないと駄目ですね。
曲の解釈という面ではいかがですか?
宗教的背景、宗教に伴う抗争、民族的ないさかい等々島国に居て机上で考え、感じることとは大きな違いがありますね。ある作曲家が作曲した曲の解釈も、その作曲家の民族としての位置、その時代背景を理解したうえでのものとは大きく異なったものになるはずです。ドイツに居る、そのこと自体が勉強の日々です。日本に帰るたびに書店に行き、その関係の資料を漁ることがこれほど楽しいものとは思いませんでした。
ひたすらピアノに向かっていた学生時代
ところで、今日の実力を培った高校生・大学生・大学院生時代はどのような学生生活だったのですか?
私は中学から国立音楽大学の附属でした。自分が演奏すること、弾くことが好きでしたからはじめからピアノを専攻していました。学部と大学院の6年間は池澤幹男先生に師事しました。私は練習時間の長短ということはあまり気にしないのですが、そんな私でも、例えば大学の講義が最後の時間まであって、あまり練習時間のとれない時でも、毎日最低6時間位は練習していたでしょうか。勿論、講義のない時はもっと長時間練習できました。練習時間を多く取るように常に心掛けていました。時間が取れればすぐにピアノに向かうというように、そのことが負担だとか苦痛ということではなく、「くにたち」の校風でもある自由な雰囲気と同じような気持ちで取り組むことができました。
そこまで取り組んだピアノを支えたものは何だったのですか?
間接的には、上手に気分転換するということが必要だと思うのです。料理づくり、夕食を作ることなどは私にとっては大変な楽しみです。それがあって現在ドイツでも自炊しており、あれこれと和食を作って楽しんでいます。直接的なことで云えば、やはり師事した先生に恵まれ、音楽の深さをいつも示して頂いたことが、勉強の意欲を掻き立てて下さったのだと思います。
具体的にはどのように?
ある作曲家が「テクニックは教えられるが、作曲は教えられない」とおっしゃったそうですが、ピアノも同じで、奏法・テクニックを教えてもらってもその音は自分の音ではないわけです。
池澤先生は“手とり足とり”というご指導ではなく、自分で考え、自分で探求するということを要求されました。すぐに答えが手に入らない分時間もかかり、「どうして?なぜ?」の問いかけのもとに試行錯誤を繰り返しました。今になって、先生が音楽の本質というものを十分分っていらっしゃったからこそ“手とり足とり”のレッスンをなさらなかったのだということが理解できるようになり、それが私に対する先生の本当の優しさ、思い遣りであったのだということが分ったのです。「どうして?なぜ?」の答え探しに没頭し、「くにたち」の図書館や楽器学資料館に足を運んだことがバックボーンとなって、今日の私があると思うのです。奏法が未熟な中学時代はともかく、音大を目指す高校生は表現力も必要ですが、その曲の心といいますか、背景にまで関心を寄せることがもっと大切だと思うのです。そこからおのずと自分の表現ができるようになると思います。少なくともその意識を持ち続けていれば、将来的に大きな力になるはずです。
尻込みしていた学生時代
現在の活躍状況に比べ、学生時代にはコンクールにあまりチャレンジされなかったようですが。
高校生、大学生の頃はどちらかというと引っ込み思案なタイプで、学部生・大学院生の6年間、コンクールにはチャレンジしませんでした。学部卒業のときに至っても、私に「これだ!」というものが掴めなかったのです。当時は外国に行くという勇気というよりも実力もなく、自分の音を求めて大学院に進みました。大学院修了とともにコンクールにチャレンジしましたが、あまり積極的ではありませんでした。
引っ込み思案なタイプの滑川さんがドイツへ、なぜです?
独習の限界、そのひと言に尽きると思います。池澤先生と交流のあったヴェルナー・ゲヌイット教授の居られるドイツ国立カールスルーエ音楽大学に留学しました。欧州に居ればセミナーもコンクールの機会も多く、大学時代と打って変わって積極的に参加するようになりました。
今後の活動について
滑川さんの具体的なご活躍の状況はプロフィールを読みますと良く分ります。実際、大学講師として多忙な傍ら積極的にリサイタル、コンサートも開かれていますね。
ドイツに限らず、欧州はどこでもそうですが銀行などのスポンサーが付き、リサイタルは開きやすい環境にあります。本当に不自由しないほどです。それと機会があって打楽器奏者とのデュオ、彫刻家とのジョイントコンサートなどにも取り組ませて頂いていますし、トークとピアノのコンサートも不定期ですが開かせて頂いています。欧州で様々な機会を設けて頂いていますので、今後はより以上に日本の曲を欧州に紹介したいと思っています。
