村松 崇継(作曲家/ピアニスト)
授業に、サークルにと活動的な学生時代
常に心にあったのは危機感と強い信念
/2012年4月
プロフィール
村松 崇継さん(むらまつ たかつぐ)
MURAMATSU Takatsugu
作曲家/ピアニスト
1978年静岡県浜松市生まれ。国立音楽大学作曲学科卒業。高校在学中にオリジナルのピアノ・ソロ・アルバム『窓』でデビュー以来、これまでに『東京』『SPIRITUAL Of MIND』『Piano Sings』『Lovely Notes of Life』と、いずれも自身のピアノを中心としたオリジナル・アルバムをリリース。
映画やドラマの作曲家として早くからその才能が注目され、大学4年在学中の2001年に映画『狗神』、2002年には映画『突入せよ!あさま山荘事件』の音楽を手掛け、2004年NHK連続テレビ小説『天花』の音楽を歴代史上最年少で担当する。その後も映画『自由戀愛』、NHK土曜ドラマ『氷壁』、映画『夕凪の街桜の国』『オリヲン座からの招待状』『クライマーズハイ』、NHK連続テレビ小説『だんだん』、映画『誰も守ってくれない』など数多くの映画、TVドラマに楽曲提供を続けている。映画・ドラマ以外では劇団四季『Song&Dance』の編曲、ブロードウェーミュージカル日本公演
『キャバレー』の編曲などの音楽も担当している。イギリスのボーイソプラノユニット、リベラが歌う「彼方の光」は、NHKドラマ『氷壁』の主題歌として大ヒット、世界同時リリースも話題となった。リベラ以外にもクラシックを中心とした幅広いジャンルの著名アーティストに楽曲を提供し、プロデューサーとしても活躍中。ピアニストとしてオリジナル、即興演奏を中心としたコンサートも全国各地で行っている。
インタビュー
作曲家として映画やドラマなど数多くの作品の音楽を担当するかたわら、国内外のアーティストに楽曲を提供。
さらに、ピアニストとしても活動する村松崇継さん。
5歳で始めたピアノを出発点に、さまざまな音楽に触れ、たどり着いた現在、そしてこれからの活動について語っていただいた。
授業と課外活動でのさまざまな交流
そのすべてが自分の糧であり
この先につながっています。
音楽の世界へのきっかけは淡い恋心
──音楽と出会った頃のお話を聞かせてください
僕の家はいわゆる“音楽一家”ではありませんでしたが、住んでいた浜松が音楽の盛んな土地で、通っていた幼稚園が音楽教育を大切にしている園だったこともあり、ハーモニカや鍵盤ハーモニカを演奏する機会が多くありました。ピアノを始めたきっかけは、好きだった先生に“上手に演奏できたら褒めてもらえる”という期待感から。5歳からピアノ教室に通い本格的に習うようになり、小学生の頃は毎年コンクールに出場していました。
高学年になり、テレビから流れてくるアニメの主題歌を耳で覚えてメロディを演奏し、それに自分流の伴奏をつけて…と、自由にピアノを弾きながら楽しんでいました。そこから始まってクラシックのアレンジに面白さを感じるようになっていきました。
──本格的に作曲の道に進もうと思ったのは?
中学生になってから吹奏楽部に入ってトロンボーンを担当しました。ピアノ以外の楽器に触れ、他のパートの音も耳に入ってくるようになって、スコアへの興味が湧いてきました。
そんな折、先生からの依頼で、運動会用のファンファーレを作ったところ、予想以上に好評で(笑)。この出来事がきっかけでピアノ以外の音楽にも関心を持つようになり、音楽ジャンルの範囲が吹奏楽から管弦楽へと拡大していきました。交響曲の魅力にとりつかれ、オーケストラをイメージしたピアノ曲を作り始めたのもちょうどその頃。同時に、映画音楽にものめり込み、お小遣いは全て中古CDの購入に充てるような生活でした。
──複数合格した中から国立音楽大学を選んだ理由は?
郷里の浜松を離れ、上京を希望していたこともあり、国立音大だけではなく他の音大も受験しましたし、両親は音楽の道へ進むことを反対していたので音楽系以外の大学も受験しました。国立音大を選んだのは、作曲学科の他にもいろいろな学科があり、多くのことが学べそうだったからです。
実際入学してみると、国立音大には想像以上に幅広さがありました。他学科の人やさまざまな楽器を専攻している人と交流でき、多くの知識を得ることができました。それは、作曲学科の授業だけでは得られないものでした。また、個々の学生も幅広く活動していましたね。
枠にハマらない活動がその先につながって
──作曲学科の授業はどのような感じでしたか?
学科ではしっかりとした理論を学びました。楽曲分析の授業では、ストラヴィンスキーを皮切りに、シェーンベルク、ヒンデミット、ジョン・ケージと時代を経るごとに空間に対する考え方が変化していくことも知りました。
印象深いのは、3・4年生の時、溝上日出夫先生に指導していただいた和声です。それまではフランス系の和声を学んでいたのですが、先生はドイツ系の和声を担当されていました。フランス和声では禁則になっていることがドイツ和声では許されるなど、その違いも合わせて学べたことはとてもラッキーで、後々の作曲活動にすごく役に立ちました。
──授業以外での活動も聞かせてください
当時周りにはジャズやビッグバンド好きはたくさんいたのですが、それを授業として学ぶ場がまだありませんでした。そのためクラシックの枠を超えて課外活動をしている人も多く、ゴスペルやジャズに真剣に取り組んでいました。クラシックの基礎がある分、レベルも高かったですね。僕も「グルービーナイト」というジャズバンドに参加して芸術祭で演奏した思い出があります。
デモテープを作成して配給会社や事務所などに送っていたのは3年生の頃。実はその当時、作曲する上で必要なコードネームやビッグバンド、エレキギターなどの知識や経験が少なく、それを課外活動で一生懸命補っていました。その頃一緒に活動していたのが樋泉昌之さんや門田晃介さんで、お二人とも現在はPE’Zというジャズバンドで“ヒイズミマサユ機 ”、 “ Kadota“JAW”Kousuke”として活動されています。このときに培ったことは今でも大きな財産ですね。
──当時から大学の図書館にもよく通われたそうですね
授業だけでは学びきれないこともあったので、わからないことや知らないことを調べるために通っていました。クラシックはもちろん、他のジャンルも本当に充実していてミュージカルやバンドのスコア、音源、映像など膨大にあります。例えば『レ・ミゼラブル』について調べようと思えば、原作から国内外の舞台映像まで何でも揃っていました。僕が最も重宝したのがオーケストラのスコア。学生には買えないほど高価でしたから。
“アジアでナンバーワン”とも言われる国立音大の図書館は宝の山です。ここを活用しないのはもったいない。僕は今でも会員登録をして利用しています。
「作曲家・ピアニスト」へのこだわり
──在学中に努力されたことは?
いつも頭にあったのは将来に対する不安。音楽の勉強がその先の仕事につながるのかといった危機感がありました。だからというわけでもないのですが、教職課程も履修していました。もちろん、教育実習にも行きました。授業のほかに合唱の指導なども担当させてもらい、“音楽の先生もいいな”と思ったこともあります。
──卒業後、作曲家・演奏家としての活動がスタートしてからはいかがでしたか?
ここまであっという間だったというのが正直な感想です。それでもやりたいことができている実感もあります。しかし、自分が学んできた現代音楽は作曲できるのですが、オーソドックスな曲しか書けなかったり、コンピュータ音楽を学ぶ機会がなかったので、PCを使用して作曲する“打ち込み”に相当苦労したり…と大変なこともありました。打ち込みは卒業後に独学でマスターしました。
もう一度入学していいと言われたら、当時はなかった音楽文化デザイン学科の音楽創作専修でコンピュータ音楽を勉強したいですね。音楽研究専修でも学んでみたいです。
──音楽や仕事に対してどんなことにこだわりを持たれていますか?
映画やドラマの作曲の仕事も楽しいですし、ピアノも大好きなので、弾ける限り演奏したいと思っています。作曲家としての顔もピアニストとしての顔も自分ですから。プロフィールを「作曲家・ピアニスト」としているのも、そんな思いがあるからです。
コンサートと作曲の両立は本当に大変ですが、さまざまな場面でファンの方にお会いできるのがとても楽しみです。
──今後の予定や目標をお聞かせください
今年はピアニストとしてのデビュー15周年にあたりますので、過去に楽曲を提供したアーティストとのコンサートや新たなコラボにも挑戦してみたいです。また、映画やドラマで大編成のオーケストラ曲を書かせてもらう機会がありそうです。
母校の国立音大でいつかライブをやりたいという夢も描いています。
──最後に国立音楽大学をめざす方にメッセージを
クラシックをめざすこともできるし、それに限らず音楽のあらゆるジャンルについて学ぶのに最適な大学です。また、音楽の世界を中心に多数の卒業生が活躍されていて、先日も声楽家の岡本知高さんやテノール歌手の秋川雅史さんと国立音大の話で盛り上がりました。皆さんに共通しているのは「国立音大卒」の誇りを持っていること。
僕が今こうしていられるのも、目標となる先輩がいてくださったお蔭です。今度は自分が頑張って後輩たちの道を作っていきたいと思います。