国立音楽大学

久保田真澄(オペラ歌手)

イタリアの舞台に立つ難しさ/1999年4月

プロフィール

久保田真澄(オペラ歌手)

久保田真澄さん(くぼた ますみ)
KUBOTA Masumi
オペラ歌手

1988年 千葉県立実籾高等学校卒業
1991年 国立音楽大学教育音楽学科(現:音楽教育学科)卒業
1993年 国立音楽大学大学院声楽専攻修了
1993年 第62回日本音楽コンクール声楽部門第3位
1994年 五島記念文化財団の奨学生として渡伊。
現リクルート・スカラシップ奨学生
1996年 リッカルド・サンドナイ国際コンクール入選
1996年 第2回フェルッチョ・タリアヴィーニ国際コンクール入選
是安豊美、田島好一、佐藤征一郎、ヴィットーリオ・テラノーバ、ルイス・バラジョーラ、ルーカ・ゴッラの諸氏に師事

1993年大学院修了後、「コジ・ファン・トゥッテ」のアルフォンソ、「フィガロの結婚」のフィガロ、「魔笛」のパパゲーノなどに出演。
翌94年イタリアに渡り、ミラノで演奏会形式の「蝶々夫人」のボンゾ、「椿姫」のグランヴィル、「アイーダ」のエジプト国王、「仮面舞踏会」のサムエル、「ラ・ボエーム」のコッリ-ネ、「フィガロの結婚」のバルトロに出演する。
1995年にはチェコ・プラハでの第4回国際音楽祭に招かれ、モーツァルト「レクイエム」のソリストに出演し好評を博した。
同年、国立音楽大学創立70周年記念公演、ミヒヤエル・ハンぺ演出/フォルカー・レニッケ指揮「セビリアの理髪師」のバルトロに出演。
1996年はオーストリア各地でコンサートに出演。また第4回津山国際音楽祭に招かれ「フィガロの結婚」に出演。
1997年スイスにてロッシーニの「小荘厳ミサ」、ミラノで「ルチア」のライモンド、「仮面舞踏会」のサムエル、「ラ・ボエーム」のコッリ-ネに出演。同年8月、藤原歌劇団公演文化庁青少年芸術劇場で「愛の妙薬」のドゥルカマ-ラを歌う。翌98年1月、新国立劇場開場記念公演「アイーダ」のエジプト国王に出演。またミラノにて、スカラ座合唱団とともに「小荘厳ミサ」のソリストを務める。
現在、イタリア・ミラノ在住。藤原歌劇団団員

インタビュー

学部は教育音楽学科(現:音楽教育学科)、大学院は声楽専攻という異色の経験を持つ声楽家・久保田真澄さん。イタリアから一時帰国されている多忙な中、高校生・大学生・院生として、その心の揺れを語って頂き、またイタリアでの活躍状況などをお伺いしました。

国立音楽大学の長い歴史の中でも、ほとんど例を見ないといわれている久保田さんが本日のゲスト。

まず、なぜ教育音楽学科(現在:音楽教育学科)に入り、大学院で声楽を専攻されたのか?
その辺の心の揺れなどをお話し頂けますか?

そうですね。それには高校生の頃のことからお話ししなければなりませんが、当時は、高校生にしては現実的といいますか、安定した公務員指向だったんです。高校を卒業したら就職しようと思っていましたし、郵便局員になりたかったというほど具体的でした。ところが、両親をはじめ周囲の反対もあり、大学進学を決めたのは高3になってからでした。それからが大変でした。小さい頃からピアノはやっていたのですが、本格的にということになれば、やはり高3からでした。ですから、そこからピアノなり、声楽なりの専攻を望むなんて、おこがましいですし、絶対不可能なことでした。そこでここでも安定指向が働き、公務員、つまり先生になれればということで受験しました。それで教育音楽学科に通うことになりました。

声楽や楽器専攻者以外の「卒業演奏会」出演は久保田さんが初めて

教育音楽学科での声楽の勉強はどのようにしていたのですか?また教育音楽学科から大学院の声楽専攻(オペラ)へと進まれたわけですが、大学4年間に何かあったんですか?

レッスンはグループでした。1年のとき声楽とピアノを選択し、歌のレッスンは田島先生で、ピアノは岡山先生でした。岡山先生がフランスに行かれるということで、途中から有賀先生に学びました。ただ幸いなことに、当時の教育音楽学科の学生は4人だったんです。普段は4人でレッスンを受けることも多かったのですが、2人2人に分かれてレッスンすることも多かったんです。ですから個人レッスンに近く、長い時間、密度の濃いレッスンを受けることができたように思います。このような環境が、大学院で声楽を専攻することができる背景にあったと思います。

環境といえば、両親が共に国立音楽大学で学んでいたんです。父がピアノ、母が歌、そのうえ兄が国立音楽大学のピアノだったんです。私を含めて「くにおん一家」そんな感じです(笑い)。母はリートよりオペラを歌っていたのでオペラが身近な存在、そんな音楽環境に育ったのが今日ある背景だったのでしょうか。教育音楽学科から声楽専攻へ進んだ理由ですが、1年のときの最初の試験で意外と成績が良く、その成績を見て、自分もその気になり、やる気も起き勉強し始めました。2年、3年と自分で言うのも何ですが順調に成績も上がり、3年生のとき田島先生に大学院を受けてみたらどうかと言われました。でも大学院なんてと思いまして先生には失礼ですが、聞き流していたというような状況でした。4年生のとき再び田島先生に強く受験を勧められましたので----。

学部卒のときに、卒演に出演したんですよね?声楽学科以外の学科から初めてという快挙ですが。

はい、出させて頂きました。ロッシーニ『セビリアの理髪師』のバジリオの役でしたが、大変想い出深い舞台の一つです。

声楽を本格的に学んだのは大学院から

話を大学院の頃に変えさせて頂きますが、その2年間はどのような勉強をされていたのですか?

一番勉強したのは演技ではないでしょうか。僕たちが栗山先生の最後の学生だったのですが、2年のときには毎回休むことなくご指導頂き、熱心に、そして何よりも厳しくご指導頂きました。演目は『運命の力』でした。熱心にご指導頂きましたので、僕たちも触発され、皆でよく集まって練習しました。当時は、身体の大きな学生ばかりだったことと、学生も熱心でしたから「床の補強から始めなければ」という先生の言葉が印象的でした。それと衣裳代が掛かったとぼやかれたのも記憶に残っています。

大学院では、専ら歌漬けの生活?

そうですね。歌漬けだけとは言えないでしょう。自宅通学でしたので通学に片道2時間半かけて通っていました。ですから学校に来て、終わったらすぐに家に帰っても5時間ですから。それにアルバイトをしていましたので、同級生と夜に会ったりとか、そう言うことはできなかった。その意味では真面目で堅実な学生生活だったかもしれません(笑い)。

イタリアでの留学生活の資金は?

イタリアには大学院修了の翌年に留学しました、修了する年の93年に「日本音楽コンクール」声楽部門で第三位。翌94年の「五島記念文化財団」のオペラ新人賞を頂き、その副賞でイタリアでの生活費を2年間出して頂きました。その後は、リクルート・スカラシップ」から奨学金を頂きました。今は奨学金も終わって、自分で音楽の仕事をして生活しています。

イタリアの舞台に立つ難しさ

イタリアでの生活は?まず舞台からご紹介頂きましょうか?

「蝶々夫人」のボンゾ、「椿姫」のグランヴィル、「アイーダ」のエジプト国王、「仮面舞踏会」のサムエル、「ラ・ボエーム」のコッリーネ、「フィガロの結婚」のバルトロなど、ミラノで舞台を踏み、95年にはチェコのプラハでの「第4回国際音楽祭」に招かれ、96年にはオーストリアの各地でコンサート、97年にはスイスとミラノなど、その間、日本でも何度か舞台がありました。職業としてイタリアの舞台に立つというのは、実はとても大変なことなんです。例えば、小さな劇場で僕たちは歌えないんです。そのような法律さえあるんです。歌うと地元の人が余分に税金を納めなくてはならない。外国人1人に対していくらというようにです。つまり自国人の就労確保ということですね。EU(ユーロ)でヨーロッパ人には開けてきたんですけど、東洋人にはとても厳しいですね。昔は、オーディションが一応あったんですが、今ではそれすらも無い。女性は、イタリア人と結婚して国籍取得の道がありますが、男性にはその道もありません。イタリアの舞台に立つというのはとても厳しいことですね。強い意志がなければ、イタリアでは留学止まりを勧めます。もっとも留学生も多く、スカラ座あたりでは皆知り合いという感じですけれど(笑い)。

コンクールの現状は?

きちんとしたコンクールもありますが、コンクールの多くは、審査前に入賞者は決まっていることが多いですね。本選になると公開になりますから、レベルの低い人を通すと徴収もにもわかるのです。現に自分も体験したことがあります。ですから劇場側もコンクールはあまり重視していないようです。

そのようなヨーロッパに活躍の場を求めるのはなぜ?

生活の中にクラシックがある、歌う機会がある、ということが一番でしょうか。音楽が暮しの中に浸透しているイタリアですから、限定はあるものの、それでも歌う機会はたくさんあります。イタリアに活躍の場を求める最大の理由は、“聴衆の厳しさ”でしょうか。音楽の聴き方がとても厳しいですね。厳しいから育つ環境があると僕は思うんです。またその厳しさの中に、若い歌手にも自信がつくようにしてもらえる暖かさがあるからでしょうか。どんなに若くても、音楽家として評価をしてくれ、市長ですらそのように接してくれます。その意味で人間的にもきちんとしていなければならない。とても勉強になります。雇われ方もきちんとしており、契約書を必ず交わす、そんなところもいいですね。それに加えて経済的にも恵まれていることでしょうか。日本とは異なり、どのような小さい舞台でもある程度のお金になるんです。日本の大きい舞台のときと同じぐらいのギャランティです。といっても裕福だということではなく、ギリギリに成り立っているレベルですが(笑い)。特にバス、重いバスは活躍の場が少ないからなおさら大変です。

下の響きを大切に

イタリアで学んだことは?

98年の中頃までヴィットーリオ・テラノーバ先生(テノール)に師事していましたが、下の響きの大事さをすごく教えて頂きました。説明が難しいのですが、自分が間違っていると思っていたことが、良かったり、向こうでしか勉強できないことがたくさんありました。例えば僕は、歌う声の位置と言いいますか、ポジションを高くしなくてはいけないと思ってやっていたのですが、勿論そういうことも必要なんですが、下の響きということも大切でそれをすごく教えてもらいました。

テノールやソプラノでは主役的なものがありますが、バスには曲目も少ないように思いますが?

確かに少ないですね。古いものには比較的重要な役と言うか、大きな役があるのですが、その後は主役を支える方に回ってという時期があり、ベルディの後期の作品ぐらいからわりとバスにも大きな役がつくようになりました。僕自身のことで言えばヨーロッパではセリア、日本ではブッファのオペラが多いですね。

今後について

今後のご予定は?

今回の帰国は藤原歌劇団の舞台が主で、東京で3回、愛知で1回の舞台。その後ミラノでロッシーニのソロ、モンツァで同じ仕事を予定しています。

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