福井敬(声楽家)
飾らない自分の今を歌っていく/1994年4月
プロフィール
福井敬さん(ふくい けい)
FUKUI Kei
声楽家
1985年 国立音楽大学声楽学科を卒業。矢田部賞を受賞。
1987年 同大学院を修了。二期会オペラスタジオ研究生修了。
優秀賞および川崎静子賞受賞。文化庁オペラ研修所第7期生修了。
文化庁芸術家在外研修員、五島記念文化財団派遣海外研修員としてイタリアに学んだ。
1989年 イタリア声楽コンコルソでミラノ大賞(第1位)受賞。また、1992年ジロー・オペラ賞新人賞、1993年五島記念文化賞オペラ新人賞、1994年芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。
二期会オペラ「ラ・ボエーム」のロドルフォでデビュー後、「蝶々夫人」「こうもり」やモーツァルトの諸作品など、多くのオペラにプリモ・テノールとして出演、高い評価を受けている。
1997年の新国立劇場開場記念公演「ローエングリーン」ではタイトル・ロールに抜擢されている。コンサートでも、声楽曲のソリストとして好評を得ている。伯田好史、布施隆治、平野忠彦、V・ボッローニの各氏に師事。二期会会員。東京芸術大学非常勤講師。
現在、国立音楽大学専任講師。
インタビュー
私の今を聴いてください――ある時、公演のプログラムに「出演者メッセージ」として載せるための言葉を求められた福井さんは、その一行だけを用紙につづりました。
「年齢、生活の状況、持っている知識、音楽的なテクニック……僕には、その時点における自分を総合して聴衆の前に出すことしかできません。背伸びや小細工をせず、裸の自分をありのまま出す。それが僕のスタイルです。」
自然体――飾らない福井さんの人柄から連想されるそんな言葉が、そのまま彼の音楽にもあてはまります。
徹底して自然体にこだわる
聴いていて気持ちがいい。すっきりする。福井さんの歌を聴いた人たちからは、決まってそんな言葉が聞かれます。
「僕はあまり器用なほうではないし、ビジュアルで見せるというタイプでもない。純粋に声・歌・音楽で、その時やれることを自分流にやっているだけです。いつも、身体の中から出てくる本能的なものを聴衆にストレートに伝えられるように、ということだけを意識して歌っています。」
声の持つ力や魅力、音楽性、声楽家がそれらにこだわるのは当然かもしれませんが、福井さんは多くのオペラに出演しているなかで、なによりも声楽の本質的な部分にこだわります。
「音楽のなかでインストゥルメントを通さないのは唯一、声楽だけ。言葉という具体的な要素もあるし、楽器が介在しない分、より直接的にアピールすることができる。それが歌の魅力だと思います。」
自らの体内に楽器を備えた演奏者である歌手。彼らは、演奏家たちが楽器のコンディションに神経をつかうのと同様、声に対して過敏になるのがふつうです。しかし、福井さんは声のために特別なことは何もしていないと語ります。
「辛いものも食べるし、お酒も飲む。気をつけていることといえば、カゼをひかないようにする程度でしょうか。」
ここでも徹底して自然体を貫く福井さん。彼が声楽において意識的にそうしたスタイルをとるようになったのは、大学院の修了が目前に近づいた頃、ある異変が起こったことがきっかけでした。
「修了論文の仕上げで徹夜が続いていた上に、将来のことで悩んだりして、心身両面でハードな時期でした。歌おうとしても力んでしまうばかりで、だんだん力が入った感じでしか歌えなくなってしまったんです」
疲労のせいもあるが、なによりも精神的に力むことがいけないのだろう。福井さんはそう考えました。
「調子が良くないからと、精神的に自分をコントロールしようとしてもダメですね。こうしようと考えた時点で、力んでヘンになってしまいます。どんなに気をつけていても常にベストのコンディションで歌えるわけではないのですから。むしろ大切なのは、体調が悪ければ悪いなりに歌って、それでも聴衆に訴えかける力が出せるということだと思います。」
未完成でも美しい
現在イタリアへ留学中の福井さんは、ミラノにある美術館で、ミケランジェロが死の6日前まで彫っていたという未完の作品『ロンダニーニのピエタ』に出会って、思わず息をのんだとか。
ノミで削りだした跡が生々しく残り、病を押して削り続けていたミケランジェロの息づかいが強く伝わってきたからです。
「それを見て、必ずしも完成したものが美しいとは限らないのだと思いました。未完成でもありのままで美しい。自分も、完成していないのに外側だけを繕って完璧に見せるようなことはするまい、と心に決めたんです。」
目標はあくまでも完成品。しかし、それをめざして歩んでいる過程も、ありのままに出していく。常に自分の今を歌に表していく。それが福井さんの自然体なのです。たとえ、所々にノミの跡が残っていたとしても……。
