岡本知高(ソプラニスタ)
自然に囲まれて育ち、たくさんの人と出会い
くにたちで過ごしたからこそ、歌える歌がある
/2016年4月
プロフィール
岡本知高さん
(おかもと ともたか)
OKAMOTO Tomotaka
ソプラニスタ
高知県宿毛市出身。1999年国立音楽大学声楽学科を卒業後、パリ市プーランク音楽院に入学し、2002年首席で修了。神﨑克彦、瀬川武、宇田川貞夫、A.パパジャクの各氏に師事。在学中の1998年、ベートーヴェン作曲「第九」日本初演80周年記念再現リサイタルにソプラノソリストとしてデビュー。2003年、ユニバーサルミュージックよりアルバム『ソプラニスタ』でCDデビュー。以降、テレビコマーシャルやドラマの主題歌などの楽曲を担当。さらに、「日本ダービー」や「世界フィギュアスケート選手権大会」、「Jリーグチャンピオンシップ」などのスポーツ大会での国歌独唱、国内主要オーケストラや海外オーケストラ、様々なアーティストとの共演、国内各地でのピアノ伴奏によるソロコンサート、ミュージカル、オペラなど多方面で活躍。2016年夏には、本場ブロードウェイで『CHICAGO THE MUSICAL 宝塚歌劇OGバージョン』の公演が控えている。
インタビュー
男性でありながら女性ソプラノの音域を持つソプラノ歌手「ソプラニスタ」。
技巧的に高音を発声するファルセット(裏声)とは異なり、生まれながらのソプラノヴォイスをもつ岡本知高さんは、世界的にも希有な存在。
そんな天性のソプラニスタの源流から、その礎となった学生時代を振り返りつつ、現在とこれからを語っていただきました。
自分が楽しいと思えなければ
聴いている人に
楽しさを伝えることはできない
世界で3人のソプラニスタ 初めにめざしたのは音楽教師
──少年時代に描いていた夢はどんなことでしたか
脚の病気で小学4年生までは養護施設と学校を往復する毎日で、週末だけ実家に戻るという生活をしていました。そのときの楽しみが姉のピアノに合わせて歌うことだったんです。5年生からは実家に戻れることになり、両親に真っ先にお願いしたのが「ピアノ教室に通わせてほしい」。とにかく音楽が楽しくて、翌年には市の音楽祭でドヴォルザークの『新世界より』を合奏。音を出すエネルギーや人前に出る緊張感がとにかく楽しかったですね。
それで、中学から吹奏楽部に入部しサックスを担当しました。当時の趣味は「楽器のカタログを読むこと」で、「生涯吹奏楽とともにありたい」と思っていました。音楽の教師になれば吹奏楽と一生をともにできるという思いから教師をめざしました。
──音楽大学への進学も早期から決めていたのですね
中学1年生のころからサックスの個人レッスンを受け、高校からはくにたちの受験準備講習会にも通いました。ところがレッスンを受けているときに音楽教師をめざしているのに、“このままでは演奏家になるのでは?”と疑問がわいてきたのです。自分が本当に何をしたいのか、選んだ道に後悔しないか、を自問していた時期でしたね。大学入試を控えた高校3年生のときでした。音楽教育学科に志望を変更し、試験科目に合わせてレッスンも変更。歌唱レッスンの初回で神﨑克彦先生が指示する音より1オクターブ高く歌ってしまったのです。すると先生は「この声を伸ばさないといけない」と別の先生に電話をされて「一度来てみなさい」と。それが後に恩師となる瀬川武先生でした。
本格的に歌のレッスンを受けるのも初めてでしたが、イタリア語の歌を歌ってみたら、とても楽しく、発声練習を含めて歌うことが好きだと気付きました。先生からは「個性のある声をしている。声楽科で磨いたほうがいい」とアドバイスをいただきました。
──人生を決めるアーティストとの出会いもこのころですね
初めて中島啓江さんをテレビで見たのが、中学生のときでした。ちょうどそのころ自身の体型にコンプレックスを抱いていて……。でも、画面に映る中島さんは、そんなことをみじんも感じさせないどころか、華やかな衣裳をまとい、メイクもバッチリと決めて、溌剌と歌い喜びにあふれているじゃないですか。“表現する”というのはこういうことなんだ、表現者にとって恥じらいや照れは何のメリットもないんだと気づかせてもらえました。自分の殻を破れた瞬間はここでした。それからは中島さんが表現者としての目標になりました。
くにたちで4年間を過ごし、そしてパリへ留学 学び取りたいという欲求にあふれた学生時代
──その後、くにたちに入学、恩師・瀬川先生との印象深いエピソードなど、学生生活の思い出を聞かせてください
瀬川先生はものすごく学生のことを考えてくださる先生で、コンコーネや母音唱法を基礎からみっちりと学ぶことができました。また、男性のソプラノにはどんな教材を用いればいいかを模索してくださいましたね。“ステージに立てる”という理由もあり、コンクールにたくさんチャレンジし、入学してからずっと頭の中は舞台に対する思いでいっぱいでした。その気持ちを察して後押ししてくださったのも瀬川先生でした。
佐藤公孝先生の合唱の授業では、いきなり一人で歌わされたりなんてこともありました。それまで合唱の経験がなく、“人の声ってこんなにすごいのか”と。そこにいた人みんながオペラ歌手に思えたくらいでした。
──苦悩や挫折もあったのですか
今にして思えば、自分は何を歌えばいいのかと思い悩むことが多かったかもしれません。そんなときに立ち寄ったのがくにたちの音楽研究所でした。髙野紀子先生がいらして、よくアドバイスをしていただきました。ソプラノの声域を保つため去勢までしていたカストラートという存在がいたことや、彼らの歌が私のレパートリーになることなどを教えてくださいました。
くにたちは先生方や卒業生に素晴らしい方がたくさんいて、自分はそこで過ごしていけるのだろうかという不安もありました。都会に生まれていればもっといろいろなことを経験できたのにと、生い立ちに対する劣等感もありました。当時は自分の実力不足を環境のせいにしていたんですよね。今はもうそんな気持ちはないですし、田舎に生まれたから、風のにおいや山が動くように変わる葉の色を感じ、土や虫に触れ、自然の感覚や豊かな心が育まれたと思っています。
──大学を卒業後、留学されたパリでの生活はいかがでしたか
留学は自分の専門はコレ!というものを確立するためで、フランスに決めた理由は、「音楽的に古いものを大切にすること」から。当時住んでいた家の大家さんに紹介されたヴァイオリニストに、歌の先生を紹介していただきました。レッスンを受け、また別の先生を紹介していただき……という連続で、13人目にして自分に合う先生に巡り合えました。
レッスンの日は門下生全員が集まり、さながら発表会のようでした。当時の私は、例えるならカラカラのスポンジで、水が吸えるのなら自分からどんどん吸いにいく。それもあって、2年少々の滞在でしたが、いろいろな試験も受け、先生の教えもあり女性のアリアも勉強しました。でも、日本の歌が歌いたくなってしまい、帰国を願い出ました。それならばと先生が課したのが、コンセルヴァトワールの修了試験を受けること。そこで最高の評価をいただき、日本へ戻ってこられました。
舞台、コンサート活動と並行して学校訪問コンサートも継続
──ライフワークともいえる学校訪問コンサートを始めるきっかけを聞かせてください
始めたのは大学2年生のとき。小学校の校長をされていた神﨑先生から声をかけていただいたのがきっかけでした。でも、初回は大失敗。大学で習っていることをそのまましたら、子供たちの反応がイマイチで……。2回目はアニメソングを中心に選曲し、トークも交えたところ手応えがありました。自己満足では成立しない、喜んでもらうには何が大切かを知る機会になりました。子供たちはとても素直で、最もシビアな観客です。今の自分があるのも多くの人の力や手助けがあってこそ。音楽の楽しさを伝えることは自分のライフワークであり、社会への恩返しだと思っています。
──舞台やコンサートではどのようなことを心がけているのですか
私たちは、同じ曲を何十回、何百回と歌います。でも、その1回1回に喜びがなければ意味がありません。自分が楽しいと思えなければ、楽しさを伝えることもできません。コンサートや舞台には、毎回変化をつけられる“即興性”があり、共演者がどう応えるのかも楽しみにしているんです。じつは、この即興性で役立っているのが、くにたちとパリで学んだバロックのアプローチ。この技法はポップスを歌うときにも使えるものなのです。
──これからくにたちをめざす人たちにメッセージをお願いします
私は数ある芸術の中で、いちばん楽しいのが音楽であり、これ以上ないというほどの趣味にもなり得るものだと思います。でもそこに必要なのは、「本当に音楽を楽しんでいる」ということ。自分と向き合いながら、音楽に一生楽しめるものとして関わっているのかを考えてほしいですね。そして、誰かの後を追うのではなく、自分で道を開いていく意識を持ってもらえたらと思います。