岡部 亮登(打楽器奏者)
くにたちでは音楽だけでなく
「人として」も学びました
/2022年10月
プロフィール
岡部 亮登さん
打楽器奏者
打楽器奏者。1986年生まれ、静岡県出身。2010年、演奏学科弦管打楽器専修(打楽器)卒業。NHK交響楽団打楽器アカデミー修了。2014年、27歳で第31回日本管打楽器コンクールパーカッション部門第1位・内閣総理大臣賞・特別大賞・東京ニューシティ管弦楽団賞・文部科学大臣賞・東京都知事賞を受賞。広島交響楽団、東京ニューシティ管弦楽団と打楽器協奏曲を共演。これまでに百瀬和紀、福田隆、植松透の各氏に師事。広島交響楽団を経て、2018年から東京フィルハーモニー交響楽団打楽器首席奏者。
インタビュー
東京フィルハーモニー交響楽団打楽器首席奏者として活躍中の岡部亮登さん。第31回日本管打楽器コンクールではパーカッション部門第1位となり、内閣総理大臣賞・特別大賞なども受賞。学生時代の「オーケストラに入りたい」という夢が実現した現在も、打楽器への情熱と実力は上向く一方です。
演奏会に全力投入したくにたちでの4年間
──音楽との出会いについてお聞かせください
母がピアノの先生をしていたこともあり、小学校の6年間はピアノを習っていました。そして中学校で吹奏楽部に入部し、打楽器担当になり打楽器の面白さに気付きました。
高校は浜松学芸高校の普通科吹奏楽コース(当時)に進学。勉強は苦手でしたが打楽器を演奏していると、ほめてもらえることが多かったです。ちょうどオーケストラに興味を持ち始めた時期でもあったので、次第に「大学でも打楽器を続けたいな」と思うようになりました。とは言え、どんな音楽大学があるかも知りませんでしたが、浜松でくにたち出身の方が吹奏楽の指導をされていたことなどもあり、くにたちは知っていました。打楽器の教授にNHK交響楽団で活躍されていた百瀬和紀さんがいらしたことも大きかったですね。ただ、百瀬さんはすぐ定年退職されたので、ご指導いただいたのは1年次のみ。しっかり音楽のお話ができたのは僕が演奏家として活動するようになってからです。
──くにたちで過ごした4年間で、心に残っている授業や先生の教えなどはありますか
何と言ってもアンサンブルですね。打楽器専攻は入学した直後から5月と10月に行われる演奏会スタッフとしての教育を受けます。まるで体育会系ですよ(笑)。1年から4年まで40~50人が、この演奏会のためだけに動いているような空気までありました。スタッフとして走り回りつつ、1年が出演するアンサンブル演奏もありましたから自分の練習もする必要があって、本当に大変でした。くにたちではこの演奏会に時間もエネルギーも注いだ気がします。大変でしたが、あれほどハードな日々を送るという経験はもう一生できないだろうと思うと、とても貴重な時間だったと感じています。また、打楽器の中でも次第にマリンバなどの鍵盤打楽器ではなく、ティンパニなどの太鼓系の楽器を演奏することが増えました。
恩師の植松透先生は今もお付き合いが続いていますが、学生が大人とまっすぐ付き合うことをとても大事にされていて、礼儀云々以前に「人として」の部分を厳しくご指導いただきました。学生が先生宛にテンプレートのようなメールを送ることは決して許しませんでした。また、「オーケストラの中で音をトンと出すかポンと出すか、それを日常生活から気にしろ」とも言われていました。学生に対して怒ったり叱ったりというのは先生もそれだけエネルギーを使いますから、本当に学生と真摯に、そして愛情を持って向き合ってくれていたのでしょう。当時、僕は怒られることが多く、先生と気軽に話す機会も少なかったのですが、今は「植松さん」と呼べる関係になり、仲はいいと思っています。くにたちで植松さんに鍛えられたおかげで、社会に出てから色んな人に臆することなく、接することができています。
日本管打楽器コンクール第1位獲得で環境が変化
──くにたち卒業後はオーケストラ入団を目指されたのですね
学生時代は毎年のようにオーケストラのオーディションがあり、2年次では一次を通過したこともあったので、このまま頑張っていけばオーケストラに入れるのではと思いました。そこで卒業後は1年間フリーで活動し、N響アカデミーのオーディションに合格したのでそこで約1年半学んだ頃、広島交響楽団への入団が決まりました。
打楽器奏者として入ったのですが、広響ではシンバルを演奏することが多かったです。打楽器の出番も少なかったこともあり、「何かやりたい」「何か変えたい」と思い、コンクールに挑戦することにしました。
──第31回日本管打楽器コンクールパーカッション部門で第1位を受賞されました
N響アカデミー在籍中に受けたことがあり、一次で落ちたコンクールです。オーケストラに入ってからコンクールを受ける打楽器奏者は非常に珍しいので、周囲からは「なぜわざわざ受けるの」と驚かれました。前回と違って、2度目の挑戦の際は人生でいちばん練習しました。そして優勝し、結果をシンプルに称賛してくれる人がたくさんいたことはうれしかったですね。また、結果を出したことで、色々なことが変わりました。広響では、コンチェルトのソリストとして演奏させてもらいました。また、東京のオーケストラに呼んでもらえるようになって、そちらでティンパニを演奏する機会が増えました。それで「東京でやっていこうか」と。広響を退団して上京し、東京フィルハーモニー交響楽団に打楽器首席奏者として入団しました。同じ打楽器首席奏者にはくにたちの先輩、塩田拓郎さんがいらっしゃいます。
人や曲に合わせられる柔軟性が東京フィルの魅力
──東京フィルに入団後、新たな気づきなどはありましたか
僕はもともと人見知りでコミュニケーション力が高くありません。しかも打楽器の出番がない曲もあるので、これまではほかの楽器の人と曲について「ここはこうだよね」と話し合ったりすることもあまりしてきませんでした。けれど東京フィルでティンパニも演奏するようになると出番が増え、音程の付いている打楽器なので、管楽器の人の中に少しだけ入っていける感覚が楽しいですね。それはオーケストラの醍醐味でもあると思います。ティンパニを担当することでわかったこと、気付いたことは結構あります。
目立つ楽器なのでプレッシャーは常にありますが、指揮者からまっすぐ見られて「ここで“ドン”を頼むよ」という場面で出す「ドン」はそれほど難しくなく、さほどプレッシャーにならないんです。むしろ少しオーケストラのリズムが乱れ出したとき、自分がどのタイミングで入っていくか、その緊張と重圧は大きいです。的確な瞬間をとらえることで整えられればいいなと思っていますが、みんながその音を聴いて「助かった」と言ってくれるようになるには何年もかかると思います。いつも本番前は緊張しますが、本番になると必死で、緊張する暇もないです。
東京フィルの音の魅力は非常に柔軟性があることだと思います。オペラも演奏すればゲーム音楽も演奏する、著名なマエストロやソリストも招く。そして常にそのとき力を持っているところを察知し、そこにみごとに音が寄っていくのがすごいですね。指揮者やソリスト、オペラ歌手、そして楽曲などの「ここ」がわかるからこそ、何にでも合わせられるのでしょう。東京フィルが多彩な演奏ができているのは、そういうところに理由があるのかもしれません。
──大学での学びが活かされていると感じることはありますか
打楽器はオタクに傾きがちな楽器だと思います。だから突きつめていくとどんどんマニアックな研究をして「こうしたらいい音が出る」といったことを内輪で話して盛り上がるということもあります。けれど僕の周りには、僕も含めてそういうタイプの人が全然いませんでした。むしろそれが視野を狭めることにならずによかったのではないかと思っています。また、ほかの大学の場合、「この大学はこの先生だからこういう傾向だよね」というのが何となくあるのですが、くにたち出身の打楽器奏者にはそれがありません。思うに、くにたちの先生方はいい意味で教えすぎていない気がします。だから同じような打楽器奏者がいないのではないでしょうか。これは打楽器に限らずくにたち全体に言えることかもしれませんね。
──今後の目標をお聞かせください
東京フィル入団後はティンパニストとしてオーケストラで演奏することもとても楽しいのですが、今後は打楽器全般に関わっていきたいですね。また、奏者が足りないときにピースとして呼ばれるのではなく、「岡部にやってもらいたいことがある」と、自分を必要とされるような機会が増えていければと思います。
──くにたちを目指す人たちへメッセージをお願いします
何に取り組むにしても、一生懸命がいいと思います。ちょっとくらい間違っていても偏っていても、大切なのは一生懸命取り組むことだと思います。
