及川浩治(ピアニスト)
言葉のない言葉をエモーショナルに語る/1995年4月
プロフィール
及川浩治さん(おいかわ こうじ)
OIKAWA Koji
ピアニスト
宮城県生まれ。1985年国立音楽大学に入学。翌年ブルガリア国立ソフィア音楽院に留学。多くの国際コンクールで上位入賞を果たす。
1987年アレクシス・ワイセンベルク主催の公開セミナーでの演奏会に対して氏の意向により最優秀特別賞と練習用のグランドピアノを授与される。
1990年第12回ショパン国際ピアノコンクールにおいて最優秀演奏賞を受賞。その後国立音楽大学に復学し、翌年より国内での演奏活動を開始。
同年日本国際音楽コンクール第2位入賞を果たす。
国内各地でのリサイタルの他、東京都交響楽団、読売日本交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団を始めとする数多くのオーケストラとの共演を精力的に行っている。
1995年11月には佐渡裕指揮/ラムルー管弦楽団との共演でパリ・デビューを果たした。ダイナミックな中に繊細さを持ち合わせる彼の演奏は幅広い層の共感を得ている。
故児玉邦夫、児玉幸子、吉本美南子、ジャン・マルク・ルイサダ他各氏に師事。
インタビュー
ベートーヴェンはある時、日課としていた散歩の途中で、何物かに取りつかれたように突然うめき声を上げ始めました。突如として、どこからともなく降ってわいてきたインスピレーションの正体をつかもうと、音にならない音を必死に発していたのです。この“音にならない音”に触発されて作曲したのが『ピアノ・ソナタ第23番へ短調〈熱情〉』の終楽章だといわれています。
そのインスピレーションとは、どのようなものだったのか。何かを感じて、彼はその曲を書いたのか。及川浩治さんは、譜面と創造力を頼りに、そうした作曲家の感情や精神の内部へとさかのぼることによって、作品を読み解いていきます。
すべては譜面に書かれている
作曲家が作品を残す背景には、平常心ではない精神的・感情的な高ぶりが必ずあったはずだ、と及川さんは考えます。
「それは、自然の美しさへの感動だったり、現実の出来事に対しての感嘆だったり、また曲によっては、神の啓示によってつくられたとしか思えないようなものもあります。演奏家がまず考えなければならないのは、作曲家が何を感じてその曲やフレーズ、音を書いたのか、ということ。譜面を深く読めば、すべてはそこに書かれています。」
譜面を読んで、音を出す。和音の響きやフレーズを自分の耳で確かめ、作品や作曲家についての知識と照らし合わせ、一つひとつの音やフレーズが持つ意味を考える。時には微視的に、時には大局的に、さまざまな角度から曲を検討しながら、その作品のあるべき姿を探っていきます。
髪を振り乱し、鬼気迫る表情で感情の波をたたきつけるフォルティシモ。やさしく優美な旋律を奏でていても、鍵盤上の指だけではあきたらず、口をついて出てくるメロディー。及川さんの内部では、常に感情が爆発を繰り返し、それが音楽となって泉のようにあふれ出してきます。
「なぜ、この世に音楽が存在しているかというと、それは人間が自然に欲したものだからです。僕はアカデミックな理論の枠に、がんじがらめにされた音楽なんてナンセンスだと思う。音楽って、もっと感情をオープンにした、ダイレクトに心を揺さぶるものだと思うんです。」
言葉のないメッセージ
演奏家は、常に聴き手に向けてメッセージを発していなければならない、と及川さんは考えます。作曲家の精神の内側を懸命に探るのは、作品に込められたメッセージをできる限り正確に読み取り、それを自分の言葉として聴衆に投げかけるための努力なのです。
「音楽の知識など持たない幼い子どもでも、こちらがメッセージを送って演奏すれば、ちゃんと感動してくれる。ピアノ作品には、具体的な言葉はないけれど、かえって限定されることなく、音楽の持つ不思議な力によって、奥行きと広がりのあるメッセージを送ることができます。聴く人が、それぞれの感じ方で受け取ることができるんです。」
音楽によるコミュニケーションを重要視する及川さんは、今日の音楽をめぐる状況をこう分析します。
「今の日本では、若い人を中心にクラシック離れが進みつつあるようですが、その一方でロックが多くの人たちに親しまれています。これは、アーティストと聴衆のコミュニケーションが成立しているからでしょう。クラシックも同じなのに、多くの人が、そこにもメッセージがあるということに気づいていないんです。」
演奏は、作品に対する真摯な解釈の結果としての再現・再創造でなければならない――及川さんの指先からは、言葉を介さない、しかしそれだけに直接的でエモーショナルな音のメッセージが発信されています。それをたどっていけば、私たちはいともたやすく、作曲家たちが数百年前に感じた精神の昂揚に共鳴し、作品に託されたメッセージを、心の深い部分でキャッチすることができるのです。
