池田幸広(チューバ奏者)
N響は想像していた以上に最高の舞台。自分に誇りを持って、N響の名に恥じない演奏をこれからも追求していきたい。/2005年9月
プロフィール

池田幸広さん(いけだ ゆきひろ)
IKEDA Yukihiro
チューバ奏者
静岡県島田市出身。中学、藤枝明誠高校と吹奏楽部でチューバを担当し、1994年国立音楽大学に入学。チューバ研究室で稲川栄一先生に師事する。1998年の大学卒業時には「矢田部賞」を受賞し、首席で卒業。卒業後は、大阪市音楽団でチューバ奏者として活躍しながら、数々のコンクールにも出場。1998年「第15回日本管打楽器コンクール」で第1位受賞、1999年「コンセール・マロニエ21」金管部門で優秀賞受賞、2000年「マルクノイキルヘン国際コンクール(独)チューバ部門」にて、第4位および審査員特別賞受賞などの輝かしい成績を収める。2003年にNHK交響楽団のチューバ奏者のオーディションに参加し、見事合格。1年間の試用期間を経て、2005年5月より正式にNHK交響楽団の一員として“チューバを吹く”毎日を過ごしている。妻と娘(3歳)、息子(1歳)との4人家族。
小さいころから友だちと一緒にやっていた合奏が、私の音楽の原点です。
インタビュー
NHK交響楽団は、チューバ奏者の定年にともなう後任者のオーディションを2003年に実施。厳しい選考の中から最後の一人に残った池田幸広さんは、1年間にわたる長い試用期間を経て、2005年5月に正式に楽団員の座を獲得した。NHK交響楽団では、実に38年ぶりとなる新しいチューバ奏者の誕生である。またそれは、池田さんが、音楽の道に進むことに反対だった父親との“約束”を果たした瞬間でもあった。
チューバ一筋で歩んできた池田さんの、決して平坦ではなかった道のりについて、いろいろと興味深いお話を聞かせていただいた。
チューバの魅力を教えてくださった稲川先生と江川先生
サッカー王国静岡県で生まれ育ち、小学4年生から始まるクラブ活動でもサッカーをやるつもりだった池田さん。ところが、校内ブラスバンド「ファンファーレバンドクラブ」の演奏を聴いた瞬間「これしかない!」と雷に打たれたような衝撃を感じた。
「とにかくかっこよくて、楽しそうで、すぐに入部を決めました。そのときはどの楽器をやりたいという希望はなく、がっしりした体格を見込まれてユーフォニアムを担当しました」
その後、音楽の楽しさに魅せられ、中学校でも迷わず吹奏楽部に入部。実はそのとき、ユーフォニアムで培った技術をサックスに生かしたいと考えていたが、そこでも体格と肺活量が注目され、勧められた楽器はチューバだった。
「今、考えれば、これがチューバとの出会いでした。中学生は、まず格好を気にする年頃じゃないですか。かっこいいイメージのサックスをやりたかったのに受け入れてもらえず、結局、嫌々チューバを吹いていました(笑)」
当時、池田さんの中学校には、藤枝明誠高校吹奏楽部の江川秀樹先生が時々指導に訪れていた。自身チューバを専攻していた江川先生は、ある日、池田さんにチューバの入った演奏と入らない演奏についての話をしてくれた。「その後、聴き比べる機会があったのですが、比べてみると、チューバのあるなしで音の豊かさがまったく違うんです。音楽の“華”は低音にあるとさえ感じました。全身に響く低音を奏でるチューバの魅力を知るとともに、絶対にチューバでプロをめざそうと決意しました」
中学卒業後は、江川先生を慕って藤枝明誠高校へ進学。また同時に、先生の出身校である国立音楽大学の稲川栄一先生を紹介してもらい、月に1回レッスンを受けに東京にも通った。
「もうその頃の頭の中には、高校を出たら国立音大へ行って、プロのチューバ奏者をめざすことしかなかったですね」
夢を実現するために、夢を捨てる覚悟が必要でした
大学卒業後は、大阪市音楽団にチューバ奏者として入団。そして社会人生活にも慣れてきた2年後に、池田さんは学生時代から交際していた女性と結婚する。奥さんは国立音大時代の同級生。チューバと同じ低音域のトロンボーンを演奏していたため、オーケストラの授業などで席が隣になる機会が多かった。「演奏の合間に言葉を交わし始めたのが、そもそものきっかけ」とのことで、池田さんのチューバにかける情熱や大きな夢もすべて学生時代から熟知。池田さんは、これ以上にない理解者を得られたわけだ。
「公務員である大阪市音楽団は収入的にも安定し、しかも好きなチューバを吹いていられるので、ともすれば満足感に浸ってしまいそうな環境でした。それでも『N響』という大きな目標を常に意識し、毎日“仕事”を終えた後に深夜や、ときには明け方まで“練習”していました。こういった生活を結婚後も続けられたのは、夢を理解し、応援してくれる家族の存在が大きいですね。」
それでもN響のオーディションの頃は、まだ小さな長女を抱え、合格するかどうかもわからない状況のまま、大阪での安定した生活を“捨てる”必要があった。そのときの池田家のプレッシャーは計り知れなかったはずだ。
「N響に入れる保証も何もないままで、前職を辞めなければならなかった二次選考の段階が、精神的にも収入的にもつらかったですね。もしダメだったときは、チューバの夢をあきらめて、音楽とはまったく違う仕事をする覚悟もできていました。N響に正式に入れることが決まったとき、まずは家族のことを考えてホッとしました。」
N響という夢を実現できたからこそさらなる“進化”が欠かせない

プロスポーツ選手は練習を1日休むと、その力を取り戻すのに3日かかるといわれる。それは演奏者も同じだと池田さんはいう。夢だったN響入団を果たした今でも、いや、N響の一員になったからこそ、さらに毎日の練習が欠かせない。ちょっとした感覚、気分、体調によって“音”は微妙な影響を受けるが、その本当に微妙な“ズレ”に対しても鋭い指摘が飛んでくるのが『N響』のすごさだと実感している。
「やはりN響というところは、想像していた以上に最高のプロ集団でした。一人ひとりが誇りを持ち、妥協のないところで個々を磨き、そんな力が集結して、あの感動的な演奏が生み出されます」
夢をあきらめる覚悟までしてつかんだN響という最高の舞台。父親と交わした約束の舞台は、池田さんにとってゴールではなく、スタートだったようだ。
「どうしてあんなやつがN響にいるんだと言われないように、また、最高の舞台に立てる喜びと誇りに負けないように、自分自身の技術を常に磨き続けるつもりです」
一員となることで身を持って感じたN響のレベルの高さ。理想の音の追求は、きっと立ち止まることはない。池田さんは今日も一吹きに魂を込める──。