鐘の音色にくつろぐ二人のイラストレーション
History

-トピックでひもとく-
アンサンブルの
くにたち

II

Modern Age

1950-1964

文部省の評価を受け 
新制大学として再スタート

終戦後、国の学制改革にともない、本学は1950(昭和25)年4月、新制大学「国立音楽大学」として再スタートを切ります。音楽大学としては、東京藝術大学、武蔵野音楽大学に続く新制大学の誕生でした。

両校が旧制の「専門学校」から移行したのに対し、本学は創立以来「各種学校」という、通常は大学への発展が想定されない校種でした。それにもかかわらず大学として認可されたことは、文部省としても破格の取り扱いであり、戦前から積み上げてきた音楽学校としての実績や実力が評価されたものです。

大学設置認可書(1950年)

幼・小・中・高校の設立で 
音楽一貫校の理想を実現

国立中学校・国立音楽高等学校 仮校舎

新制大学開設を前に、当時、教育と経営の両翼を担っていた有馬大五郎と中館は音楽家を育成するための「早期教育」機関の構築を構想していました。

この実現に向け、1949(昭和24)年に「国立中学校」(現:国立音楽大学附属中学校)と「国立音楽高等学校」(現:国立音楽大学附属高等学校)を開校。翌1950年に「国立幼稚園」(現:国立音楽大学附属幼稚園)を開園、続く1953年には「国立音楽大学附属小学校」を開校しました。大学に先んじて中学校と高等学校を設立したのは、早期から音楽の基礎を学ばせ、感覚や知性、芸術性を体得させる明確な目的があったからです。

当時は音楽を専門とする高等学校自体が存在しない時代で、本学が日本で初めてそのモデルを提示しました。こうした一連の附属校設立により、本学は幼・小・中・高・大学へと連なる体系的な音楽教育の基盤を自ら築き、「音楽一貫教育」という理想を具体的に実現していったのです。

Column有馬大五郎
(1900-1980)

本学初代学長・有馬大五郎は、ウィーン国立音楽アカデミーの声楽科、理論作曲科で学びました。その後ウィーン大学哲学部音楽科で音楽学を修め、日本音楽史に関する博士論文で博士号を取得します。

1936(昭和11)年、声楽、作曲理論、音楽学等の担当として本学に着任。戦後、土川正浩学院長の突然の逝去により、1947年、副学院長から学院長事務取扱になりました。1948年の財団法人「国立音楽学校」認可により理事長に就任。1950年の新制国立音楽大学誕生時に初代学長に就任、理事長職は1963年まで兼任しました。以降、附属各校の校長や園長も務め、総合音楽教育の基盤を作りました。

頑固で強い主張を持ちながら温かさも備え、多くの学生や教員を魅了。音楽家としてのあり方を説いた論文や文章も数多く残し学生を励まし続け、1980年に逝去するまで、30年余の長きにわたり本学を導きました。

また1942年以降、日本交響楽団(現:NHK交響楽団)の事務長、副理事長を歴任し多くの功績を残しました。

先進的な学科を次々新設 
総合音楽教育への道を推進

岡本敏明
教育音楽学科による合唱行脚(1963年・沖縄)

大学では開学と同時に、当時としては先進的だった「教育音楽学科」と「楽理学科」を開設します。特に教育音楽学科は全国で初めての設置でした。戦後、教員養成はすべての大学に開放され、必要単位の履修で教員資格が得られる方針となり、「教育科は不要」とする見方も強まりつつありました。

これに対し教育音楽学科の中心教員であった岡本敏明は、文部省の公聴会で「我こそは指導者たらんという「音楽教育者」を育てる学科が必要」と強く主張し、「歌えて、弾けて、作れて、振れる」教師像を掲げました。

岡本はさらに、学生が現場で指導力を磨くための「合唱行脚」を始めました。将来、音楽教師としてより良い指導ができるようにとの願いから始めた取り組みでした。さらに1952(昭和27)年には「附設保育科」(1956年からは「幼稚園教諭養成所」)を、1963年には4年制大学として初の「幼児教育専攻」を新設します。附属幼稚園の初代園長であり、リトミック教育を初めて日本の教育に導入した小林宗作の教えを受けた板野平を迎え、小林、岡本らは、本学を総合音楽教育機関へと発展、推進していきます。

Column小林宗作
(1893-1963)

群馬県出身の幼児教育研究家。欧州留学で学んだリトミック教育を日本に導入し、子どもの表現力や創造性を育む「綜合リズム教育」を提唱しました。1950(昭和25)年、国立音楽大学附属幼稚園の初代園長に就任。リズム教育を実践し、本学の幼児教育・音楽教育の基盤づくりにも大きな影響を与えました。

定期演奏会やコンサートを 
精力的に開催

国立音楽大学秋季演奏会(第1回オーケストラ定期演奏会)(1953年・日本青年館)

様々な変化を遂げる中、本学が授業の一環として位置づけた演奏会が日本青年館で開催されるようになったのは、1953(昭和28)年10月17日のオーケストラによる演奏会からでした。

第1回は「國立音楽大学秋季演奏會」と銘打ち、オーケストラ演奏だけでなく、弦楽合奏や独唱等も加えたプログラムで構成されました。第9回を迎えるときには「定期演奏会」と冠し、現在の「オーケストラ定期演奏会」となったのは、第28回目の開催からでした。

1958年芸術祭の吹奏楽演奏(翌年からブラスオルケスタ―として本格的に活動開始)

さらに1958年には、学生中心で結成された吹奏楽団が「芸術祭」でデビュー。翌年からは、ヨーロッパの伝統を意識した「吹奏楽のオーケストラ」を目指す「ブラスオルケスター」として83名から成る部員により本格的な活動を始めました。第1回定期演奏会は、1960年に杉並公会堂で開催されました。以後、他の吹奏楽団では手掛けにくい難曲や古今の管弦楽作品のオリジナル編曲を積極的に取り入れ、唯一無二の存在になっていきます。

同じ頃、戦前に学友会主催で不定期に行っていた「土曜演奏会」を復活させた「土曜コンサート」を開催。多い年には年間10回もの演奏会を行い、1971年まで続きました。この伝統は1972年からは「ソロ・室内楽定期演奏会」として引き継がれていきます。

「くにたちオペラ」の源泉は 
芸術祭上演のオペレッタ

オペレッタ『コルヌヴィルの鐘』出演者たち(1948年・芸術祭)
オペレッタ『コルヌヴィルの鐘』プログラム

1946(昭和21)年から学友会主催で秋に芸術祭が催され、1947年には正式に「芸術祭」と名乗るようになりました。1948年、第2回芸術祭では本学初のオペレッタ『コルヌヴィルの鐘』が上演され、多くの観客を集めました。

その後、学生を中心に「オペラ部」が設置され、本格的なオペラ上演に取り組むようになりました。1963年4月、大学の正式機関として「オペラ研究室」が開設。専攻科生や学部上級生から選ばれた研究生が音楽アンサンブルや演技トレーニングを受けました。

1976年には「オペラ委員会」が発足し、大学院生を中心に公演を継続していきます。同年1976年の創立50周年記念公演では『フィガロの結婚』を原語上演に切り替え、作品本来の姿で学ぶ方針を確立しました。

1981年以降、「オペラ委員会」はすべて大学院に移行し、「大学院オペラ」として活動を続け、今も多くの人々に感動を与えています。

新しい取り組みで可能性を拡大 
楽器研究所ではアトラスピアノ誕生

楽器研究所の西村武が設計した「アトラスピアノ」

1949(昭和24)年4月、ピアノの調律・修理技術を学ぶ目的で音楽高校に「調律科」を新設。学校教育のもとで技術者を養成する中谷孝男の構想によるものでした。1951年、大学別科に「調律科」を設置、1970年には高校の「調律科」を吸収し、高等教育機関である大学に一本化されます。その後2018年に別科は学生募集停止となりましたが、3年生から履修できるコース制の「ピアノ調律コース」として現在も継続しています。

1950年に国分寺市(旧国分寺町)に「楽器研究所」を開設。初代所長の西村武のもと、ピアノの調律や楽器研究、開発などを中心に独立採算制で運営されました。特筆すべき実績として、アトラスピアノ製造会社と共同開発したピアノ響板とグランドピアノのダンパーは、特許を取得し、楽器研究所の特筆すべき実績となりました。安価でありながら性能が高く、ピアノの普及に大きく貢献しました。その後、研究所は本学附属中・高校地内に移された後、立川市の大学校地に移転し、1976年に発展的解消、「楽器技術センター」と「音楽研究所」になりました。

Column郡司すみ
(1930-2019)

1930(昭和5)年、父親が外交官であったことから、フィンランド・ヘルシンキに生まれ、西ドイツ・ルートヴィヒスブルクのFachschule für Musikinstrumentenbau(楽器製作専門学校)を卒業。日本人初のピアノ製作マイスター「Klavierbaumeister」の称号をうけます。

1962年に帰国すると、国立音楽高等学校(現:国立音楽大学附属高等学校)の教員として指導に当たりながら、本学と提携していた「アトラスピアノ製造株式会社」に入社、数々のピアノの設計を手掛けました。

本学には1966年に楽器学・調律の担当として着任しました。1976年に設置された音楽研究所の楽器研究部門では、「楽器学」という学問的基礎の上に西洋の古楽器や世界の民族楽器を収集する中心的役割を果たします。収集には直接海外に注文を出すほか、ヨーロッパを回ってその土地で実際に使われている楽器を集めることに力を入れました。収集した楽器を用い、世界の一流演奏家を招いた「レクチャー・コンサート」を数多く開催し、現在も継続しています。

1988年、音楽研究所から独立し楽器学資料館が設立されると初代館長としてその礎を築きます。また、独自の楽器分類法の考案にも心血を注ぎ、1995年の退職まで本学における楽器学と調律教育を牽引し続けました。

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アンサンブルの
くにたち