鐘の音色にくつろぐ二人のイラストレーション
History

-トピックでひもとく-
アンサンブルの
くにたち

I

Overture

1926-1949

新しい音楽教育を求めて 
若き音楽人たちが立ち上がる

卒業生と共に写る創立者たち(1928年3月・前列右 武岡鶴代、後列一番左 中館耕蔵、左から4人目 渡邊敢、5人目 榊原直、6人目 矢田部勁吉)

1926(大正15)年1月、国立音楽大学の前身「東京高等音楽学院」の創立が帝国ホテルで発表されました。私立の音楽専門学校でしたが、1887年設立の官立「東京音楽学校」(現:東京藝術大学音楽学部)に並ぶ音楽学校設立構想でした。

私学であることの本領を発揮し、自由で理想的な音楽学校を創ろうと立ち上がった創立メンバーの中心は、当時の日本では先駆けともいえる音楽マネージャーとして活躍していた中館耕蔵。さらに、声楽家の矢田部勁吉と武岡鶴代、ピアニストの榊原直という皆30代に入ったばかりの若き面々でした。

中館は多くの音楽会を企画する中で、日本人演奏家と、来日する外国人演奏家との実力差を痛感します。当時は東京音楽学校のほかに私立の小規模校がわずかにある程度で、音楽を学ぶ環境は限られていました。そのような時代状況の中で、中館は新たな音楽学校の創立を決意するに至ります。彼らに、初代学院長となる牧師・神学博士の渡邊敢が加わり、日本の新しい音楽教育が芽吹いていきました。

当時の制服(式服)
第1回入学生(仮校舎のあった新宿園にて)

創立時の想いは、その後「自由、自主、自律」という基本理念に集約され、現在に至っています。

同年4月には、四谷の遊園地「新宿園」にあった建物を仮校舎として初の授業を開始します。教員は23名、入学者は本科27名(声楽部・器楽部、5年後には作曲部が加わる)、予科74名、高等師範科19名、師範科12名でのスタートでした。

新しい町「国立」の発展と共に 
音楽の真髄を学ぶ環境を整備

地鎮祭案内状・次第(1926年)

創立の第一歩として、校舎用地を東京府北多摩郡谷保村(現:国立市)に選定したのは、この地も新しい一歩を踏み出そうとしていたからです。この頃、3年前に発生した関東大震災により都心から郊外へ、宅地開発が盛んになっていました。校舎用地となる一帯も箱根土地株式会社が新しい町「国立」を学園都市として生まれ変わらせようと開発に動き出していました。まだ雑木林が生い茂る、電灯もない土地の開発。中館は、「本来は国がすべき開発事業を民間企業が行っている。これに協力すべき」と、その気概に賛同したのでした。

5月29日の地鎮祭は、まさに本学らしいものでした。伝統的な祝詞で行う地鎮祭に代わり、一連の演奏会プログラムとして実施されました。ヴァーグナーの『定礎祝歌』で幕を開け、ハイドンの『天地創造』、ブラームスの『大学祝典序曲』を経て、最後はベートーヴェンの『祝賀行進曲』で締めくくられたのです。

朝鮮・内地演奏旅行にて(1936年)

そして教員には、創立者たちをはじめ、声楽、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、音楽史・音楽美学・音楽生理学、さらにドイツ語・フランス語を含む幅広い分野を担当する教員が名を連ねました。こうした体制により、学生が総合的に学べる教育環境が築かれました。1927(昭和2)年4月、パウル・ショルツ(P)とハインリッヒ・ウェルクマイスター(Vc)が加わり、本学の教授陣はさらに厚みを増しました。こうして、当時の朝鮮や台湾からも多くの学生を集めました。

※『祝賀メヌエット』のこと

「本物の音」を演奏会で届けて 
校内外の聴衆を魅了

外国人教授(右からウェルクマイスター、モギレフスキー、ショルツ、左端は渡邊敢)

1927(昭和2)年5月、アレキサンダー・モギレフスキー(Vn)が教授に就任します。これは演奏のため来日していたモギレフスキーを中館と渡邊が訪ね、実現したものです。後に中館は「世界的大家として帝劇で演奏会を開いているのをやといに行ったのだから、ずうずうしかった」と語っています。招聘にはかなりの費用がかかりましたが、中館が自ら語っているように、「それがなければ例えば今のヴァイオリン界もこんな発展はなかった」。

ショルツ、ウェルクマイスター、モギレフスキーといった一流の教授陣は、本学の大きな魅力の一角を成します。

こうした環境のもと、学生たちによる演奏会が活発化、「学友会」も組織されました。地方公演だけでなく、当時の朝鮮でも公演を行い、その存在感を増していきました。

食堂の様子(1934年頃)
寮の内部(1934年頃)
モギレフスキー教授演奏会ポスター(1927年)

同じ年に創設されたN響と 
共にクラシック音楽普及に尽力

新交響楽団(現:NHK交響楽団)との初共演での撮影(1928年)

本学と同じ年に創設された「新交響楽団」(現:NHK交響楽団)との最初の共演は、1928(昭和3)年12月、近衛秀麿の指揮で演奏されたベートーヴェンの『交響曲第9番 ニ短調 合唱付き 作品 125』(以下、『第九』という)の、まさに「合唱」でした。以降、マーラー『交響曲第3番』、ベートーヴェン『ミサ・ソレムニス』、モーツァルト『フィガロの結婚』など数多くの作品で合唱として共演を重ねています。

中でもベートーヴェンの『第九』は最も多く共演し、本学でも特別な楽曲となりました。戦後は『第九』が広く日本で親しまれ、年末の演奏会として定着していきます。

新交響楽団との共演に向けた練習風景(合唱指導 ローゼンストック)

新交響楽団、そしてカラヤンやデュトワなど世界的指揮者との多くの共演を通じ、学生たちは大きく成長し、また、日本におけるクラシック音楽普及の一翼を担っていったのです。

※1927年12月10日「アレキザンダー・モギレフスキー教授指揮交響楽団混声合唱大演奏会」で、一部パートに新交響楽団員を呼び共に演奏した実績があります。

戦時下でも 
理想と信念を貫き通す

応召者壮行会の一コマ(1938年頃)
学校工場の設置を伝える記事(朝日新聞 1943年10月25日)

本学は創立以来、学生が自主的に学び、理想的な音楽教育を追究できる自由な環境を重んじてきました。しかし戦争の拡大により、学業に専念できる環境は一変。全国の大学では国の方針で学生を軍需工場へ動員する「学徒勤労動員」が実施され、音楽学校も戦時体制へ組み込まれていきました。本学でも学生が召集されると壮行会を開催、日章旗に「武運長久」と寄せ書きを書いて送り出しました。

戦時下、学生が過酷な作業を強いられる状況をひどく憂いた中館は、「学校工場方式」を考案。これは学生が学校内で作業ができるようにしたもので、中館が当時の文部省や航空本部と折衝、飛行機の点火線の整理など学業に差し障りのない作業を条件とし、了承まで取り付けたのです。

これにより、戦時中にあってもなんとかレッスンが続けられ、本学の使命である音楽から離れずに済みました。そこには、創立以来の理念を貫き通そうという教員や学生たちの強い意志がありました。

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