高田 智宏(バリトン歌手)
声楽の入口も、世界をめざすきっかけも、
新しいものに出会い、感動することからでした。
/2011年9月
プロフィール

高田智宏さん(たかだ ともひろ)
TAKADA Tomohiro
バリトン歌手
1999年国立音楽大学音楽学部声楽学科を卒業後、二期会オペラ研修所を経て、2002年国立音楽大学大学院音楽研究科声楽専攻(ドイツ歌曲)を首席で修了。同時にNTTドコモ賞を授与される。2003年友愛ドイツ歌曲コンクール第2位。また2005年第4回静岡国際オペラコンクールで「三浦環特別賞」を受賞。2006年第4回長久手オペラ声楽コンクール優勝。
2003年より小澤征爾音楽塾オペラプロジェクトIV~VIに参加。J・シュトラウス「こうもり」アイゼンシュタイン、プッチーニ「ラ・ボエーム」マルチェッロ、ロッシーニ「セヴィリヤの理髪師」フィガロ役のカヴァーキャストをそれぞれ務める。また上越、宇都宮、神戸、天津、上海特別公演には同役で出演。「サイトウキネンフェスティバル」青少年のためのオペラ公演において2005年にモーツァルト「フィガロの結婚」アルマヴィーヴァ伯爵、2006年に「セヴィリヤの理髪師」フィガロ役で出演した。その他にモーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」グリエルモ、またインターナショナル・フリードリヒ・クーラウ協会第4回定期演奏会では本邦初演のオペラ、S.F.クーラウ「盗賊の城」においてベルナール役で出演した。ソリストとしてはベートーヴェン「第九」、フォーレ「レクイエム」、ブラームス「ドイツ・レクイエム」、オラフ「スターバト・マーテル」などで歌っている。
2007年5月、シュトゥットガルト州立歌劇場にて、プッチーニ「西部の娘」ベッロ役でドイツデビューを果たし、2007年9月よりキール歌劇場の専属歌手。数多くの役を演じ、特にワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」ベックメッサー役は、地元誌だけでなく、ドイツの音楽雑誌「オペラグラス」においても、高い評価を得る。
これまでにウーヴェ・ハイルマン、ハインツ・ゲーリッヒ、ヴォルフガング・ブレンデル、秋葉京子、野崎靖智、松本進、トム・クラウゼの各氏に師事。現在ドイツ在住。
インタビュー

ドイツ・キール歌劇場専属歌手として年間多数の舞台に立つ髙田智宏さん。声楽家を父に持つ環境にありながら少年時代に夢中になったのはロックだった。やがて三大テノールの音楽と出会いクラシックへ。さらにリート、オペラの世界へと進んでいく。ドイツ留学で直面した言葉の壁と、壁を乗り越えた末に叶えた夢・達成した目標などを、学生時代のエピソードを交えて伺った。
音楽は芸術でありエンタテインメントでもあります。
だから、楽しんでもらう要素も大切なこと。
人を楽しませることは、自分にとっても楽しいことなのです。
トゥーランドットに導かれるようにクラシックへ
──声楽との出会いや音楽の道に進むきっかけは?
父が声楽の先生で、声楽に触れる機会にあふれていたことから、物心がついたときには歌うことが好きになっていました。とはいえ、その頃クラシック音楽は難しくて退屈に思え、高校1年生まではロック少年で友達とバンドを組み、ギターを担当していました。
転機は高校2年生の春、当時聴いていたアーティストの楽曲にクラシックの影響を感じ、興味がわきました。その後、きれいなジャケットに魅せられ三大テノールのCDを購入。そして、その音に衝撃を受けました。
──それから音大への進学を考え始めたのですか?
パヴァロッティが歌う、プッチーニ作曲の歌劇『トゥーランドット』のアリア「誰も寝てはならぬ」を聴いたときに、全身に鳥肌が立つほどの感動を受け、「この曲を歌ってみたい」と、すぐに父に相談。以来、父から声楽の手ほどきを受けるのですが、早々に辛い宣告が。「この曲を歌うことは不可能だ」。私の声はテノールではなくバリトンだから、というのがその理由でした。その宣告に心が折れそうになりましたが、バリトンにもすばらしい曲が多数あることを知り、音大に入学してしっかりと勉強しようと思ったのが進学の理由です。
──国立音楽大学を選んだ理由は?
学生のみなさんが年末にNHK交響楽団とベートーヴェンの交響曲「第九」を演奏している姿をテレビで見て、自分も同じステージに立ちたいと思い、国立音大以外は選択肢として考えませんでした。入学後、その願いは叶えられ、卒業後も含め7年間参加。指揮者によって勢いや繊細さなど表現が異なり、それを感じ奏でる楽しさがありました。この経験は、表現者としての視野の広がりにつながりました。
次の扉を開き、道を拓く新たな出会い

──国立音楽大学の魅力と学生時代の思い出は?
国立音大の魅力は、自由に伸び伸びと学べるところです。学生がお互いの意見や情熱をぶつけ合い、切磋琢磨していましたね。その根底にあるのが“自分を高めていきたい”という思い。当時はあまりそれが特別なことという意識はなかったのですが、卒業後、他の音大出身の方の話を聞くと改めて魅力的な環境の中で学べたのだと実感しました。
しかし、自分のことを振り返ると……入学したまでは良かったのですが、必要最低限の知識・技術しか持ち合わせておらず、同級生のレベルの高さに愕然。音楽の基礎であるソルフェージュの知識にも乏しかったので、先生や友達を見つけては教えてもらっていました。また、幅広く声楽作品に触れるため、3年次までリートとオペラのアリアを学びました。リートは、歌えば歌うほど世界が広がることを知り、素敵な曲を見つけては歌ってみたり……。その頃はまだ、オペラのアリアは数曲くらいしか歌えませんでした。
──リートではなくオペラの道を選んだのは?
4年次に受けたオペラアンサンブルの授業が転機でした。“歌いながら演じること”がこんなにも楽しいのかと。久岡昇先生の授業で演じたモーツァルト作曲のオペラ『フィガロの結婚』の伯爵とスザンナの二重唱が特に印象に残っています。私がいくら伯爵を演じてみても、青二才にしか見えなかったのです。しかし、先生の立ち居振る舞いを見ると伯爵然としている……。どうすれば伯爵になれるのか、どう動けば農民に見られるのかなど、演技の大切なポイントを指導していただきました。その後、自分が伯爵になりきったとき、何とも言えない妙な快感を覚えました。
──大学院でのお話を聞かせてください。
実習で国立音大の大ホールを使用してオーケストラと一緒にオペラを創りあげることができ、とても刺激になりました。また、師事した秋葉京子先生は、曲を深く考察することや、感情表現をいかに声に乗せるかなど、熱心に指導してくださり、現在の自分にとって大きな出会いのひとつでした。レッスンでも次の人の時間まで食い込むこともよくあり、順番を最後にしていただいたり。私は音楽に関して負けず嫌いなところがあり、出された課題に対してできるようになるまでとことん歌い込むため、どうしても時間が足りなくなっていたのです。
海外に目を向ける転機は“世界の小澤”
──海外で活動しようと思ったきっかけは?
2003年から3年間、カヴァーキャストとして参加した小澤征爾音楽塾オペラプロジェクトがきっかけでした。小澤さんが指揮をされた公演で歌ったときは、緊張よりも“あの世界の小澤さんと一緒に音楽をしている”喜びのほうが強かったです。音楽のうねりや力強さ、繊細さを歌いながら体感できたことは、この上ない経験になっています。また、2年目にプッチーニ作曲のオペラ『ラ・ボエーム』でアンナ・ネトレプコと共演できたことも貴重な体験に。彼女の圧倒的な存在感と華やかさ、歌唱力を身近に感じられ、自分も海外で勉強しなくてはと強く思うようになりました。
──キール歌劇場の専属歌手となった経緯は?
音楽塾が終わるころ、大学院の特別講義でお世話になったウーヴェ・ハイルマン先生からドイツ留学のお誘いを受け渡独。ここからが本当に大変で、まず半年間は発声の見直しと再構築のためひたすら発声練習。さらに、毎日語学学校へ通い、発声とドイツ語に明け暮れました。しかし、そのお蔭で半年ほど経過するとこれまで苦手だった音域や母音の発音が気にならなくなり、レパートリーも徐々に増やすことができました。
その後、ハイルマン先生に紹介されたハインツ・ゲーリッヒ氏に師事。先生はシュトゥットガルト州立歌劇場専属歌手で、現場の空気に触れる機会がとても多くなりました。ある日、劇場の練習室に音楽監督が突然入ってきて、声を聴いてくれることに。まさか、これがドイツデビューのオーディションになるとは思ってもみませんでした。歌い終わり、音楽監督の口から出た言葉は「プッチーニの『西部の娘』の脇役で歌ってみないか」。役をいただき喜んでいると、歌手リストに登録していた音楽事務所から「キール歌劇場の専属契約のオーディションがあるから受けてみないか」との連絡が。オーディション当日は、劇場の舞台に立って歌えることがとてもうれしく、緊張するどころか楽しんで歌うことができました。専属契約できたのは、気負いがなかったことが功を奏したのでしょう。
さまざまな経験のすべてが音楽の糧

──現在のキール歌劇場での活動について
キールはドイツ北部のシュレースヴィッヒ・ホルシュタイン州の州都、それほど大きくない街のため、街行く人に「オペラ歌手の人でしょ」とよく声をかけられます。うれしかったのは、初舞台を踏んだ次の日に街で、「昨日は良かったわ」とか「あなたの声、気に入ったわ。ずっとキールにいてね」と言われたことです。
在学中オペラを学んだ時、「モーツァルトは基礎だ」と指導されましたが、当時は何のことかよく理解できていませんでした。しかし、経験を積むうち、オペラに関する重要な要素のほとんどが、モーツァルトの作品に凝縮されていたことを実感。学生時代に得たことは、今の自分にとって、オペラにどのように取り組んだら良いかという指標になっています。
──音楽に対する変化や日本での活動との違いは?
欧州では生活の一部として教会の鐘の音が街中に響いており、偉大な作曲家たちはこうした音や空気を音楽で表現してきたのだと思います。ドイツで生活するようになってから、そうした音を感じる感覚が以前より繊細になり、自分の音楽に生かそうとするようになりました。
毎回かなりの数の舞台に立つと、数をこなしていくうちに初日のモチベーションが、どうしても低下してしまいます。しかしそれでは、聴きに来てくださる方に大変失礼ですよね。ですから、私は毎回本番の中で新しい発見をするよう心がけています。何かを発見できれば自分のスキルアップにもつながりますし、自然と集中できるからです。
──壁にぶつかった経験とその克服法は?
私にとって、ヴェルディの作品を歌うことがいつでも壁です(笑)。学生のとき、よくヴェルディのアリアにチャレンジしたのですが、まともに歌えたためしがありませんでした。この劇場でも2年目に、歌劇『ドン・カルロ』のロドリーゴ役を演じることになり、自分にできるのかと不安だらけ。苦手意識を払拭するため作品にのめり込み、歌詞を何十回、何百回と繰り返し朗読したり、歌うときも、メロディーを意識するのではなく言葉を意識してみたり。そうしているうちに自然と楽に歌えるラインが見えてきました。自分にとっての壁がある場合、そこから逃げずに当たってぶち壊すしかありません。ただし、やみくもに “当たって砕けろ”ではなく、何が本当の壁なのか、細かく分析し、根気よくトライし続けることが必要だと思います。
──これから国立音楽大学をめざす方へメッセージを
音楽はその人の経験が出るものですから、若いうちからいろいろな経験をしてほしいです。成功するだけでなく、恥をかくこと、失敗もたくさんしてほしい。豊かな経験が、演奏者の糧となり、その糧から生まれた自分の奏でる音楽で目の前にいる方が喜んでくれたら、こんなに幸せなことはありません。もう一つは、目標を持ち続けること。オペラの世界では、メインキャストとして舞台に立てるのも一握りの人たち。だからこそ、目標を持ち続けることが大切なのです。私もこの世界をめざす人たちの目標とされるよう努力していきたいと思います。