運命を変えた横笛
ピアニストをめざしていた赤尾さん。5歳からレッスンを受け、ゆくゆくは大学でもピアノを専攻し、プロとして歩んでいこうと心に決めていました。しかし、その夢は叶えられなかった。
「結局、手が小さかったんですね。相当悩みました。でも、そういう悩みって、日本人には少なくないんですよ。最初は私だけかと思っていたのですが、意外に多くの人が同じ思いをしていた。なんだか救われたような気がしました」
昔ほどではないが、今でもピアノにはよく向かっているといいます。ただそれは、あくまでも指の動きをスムーズにするため。
「横笛との出会いはそんな悩みの最中で、高校3年生のとき。ある日、テレビから篠笛(しのぶえ)の軽くて甘い音色が流れてきて、これなら私にもできる、と直感したんです」
国立音楽大学入学後、楽理学科(現在の音楽学学科)での勉強と平行して、宮内庁楽部の芝祐靖氏のもとで龍笛(りゅうてき)を学ぶとともに篠笛と能管(のうかん)を若山胤雄氏に師事。そして、まだ大学在学中の1972年、石井眞木氏作曲の『遭遇二番』を小沢征爾氏が指揮するサンフランシスコ、フィラデルフィア両オーケストラと共演してアメリカ各地で演奏し、初舞台を踏んだのです。
翌1973年に国立劇場で今様の復元で『水白拍子』を演奏し、それからというもの、龍笛・能管・篠笛を吹き分ける日本唯一の女性ソリストとして、赤尾さんの活躍の場は急速に広がっていきます。
1976年には東京のパンムジーク・フェスティバル独奏部門で第3位に入賞、翌年に柴田南雄氏の作品をもとに東京・青山タワーホールで初リサイタルと、めざましい活躍ぶりです。 |
|
笛は生きている
最近とみに邦楽器への関心が高まっていますが、赤尾さんはその火付け役の一人といえるでしょう。一番長いものでも60cmほどしかない楽器ですが、その音は高くてよく通ります。赤尾さんは、小柄な自分でも100人のオーケストラに負けない感動を与えられるというのが横笛の魅力だという。
「横笛という楽器は、吹けば吹くほど竹の繊維がやわらかくなって音色も変わっていきます。他の楽器だと、使い込むほどに消耗して音も悪くなると考えられるわけですが、笛はその逆。吹けばその湿気で音が次第に練れてきて音質的にもいい状態になるといわれています。つまり、笛は生きている――そして、私も変わると同時に笛も変わっていく。その意味でもこれからが楽しみなんです」
1984年1年間の日本での公演回数は25回。今年(1985年)も30回の公演が予定されています。そして国内はいうに及ばず、美しい笛の大使として世界を駆けめぐる赤尾さん。最近ではニューヨーク・カーネギーホールで石井眞木氏作曲の交響詩『祗王』を演奏し、ベルリンでも同じく石井氏作曲の協奏曲『解脱』を初演するほか、レコーディングにも意欲的に取り組んでいます。
「邦楽として横笛と、西洋音楽を全く新しい形で統合していければと思っています。そしてその中で、これこそ赤尾三千子の音楽と、自分でも納得できるような世界をつくりたい。横笛は自分自身の表現手段。生きているということを実感できるような、手応えのある音楽を絶えず求めていくつもりです」
赤尾さんの音楽は、これからますますその世界を広げ、円熟味を増していくにちがいありません。
※1985年第4号掲載
|
|